■マインドフルネス
「マインドフルネス」という言葉が流行して どれくらいたつだろうか?
10年前くらいに、その言葉が日本に入ってきたように思う。
「念」という文字を米国流に表現したものと言われていた。
10年たって、 「マインドフルネス」は完全に市民権を得た印象がある。
海外で起きている問題などをよそに、一つの“解決法”として 流布している。
先般、久しぶりに師匠である和尚と飲んだ。
元スタッフも交えて、因果がどうのこうの・・・、 縁がどうのこうの・・・と訳のわからない話をしていると、 自然に「今流行のマインドフルネス」の話になった。
和尚は低い声で言った。
「最近、坊主の中にも、マインドフルネスに関わっているやつがいてな・・・」
もちろん、彼の話すトーンは批判的なものだ。
私は言った。
「坊主というのは、庶民に“短い視野でモノを見てはいけないよ”と教える立場にいるのに、本人が短期的な視点で動いていたら、世話ないですね」
和尚は笑いながら、うなずいた。
同じようなことをやっていても、方向違いということはよく起こる。
仏教側から見ると、マインドフルネスという名前になって商業的 味付けをされたリラクゼーション法は、そんなものの典型に映る。
それを坊主が推奨というのは、和尚から見たら腹立たしいし、そんな商品を作り上げたアメリカ人に恨み節の一つも言いたいのだろう。
ネットで、マインドフルネスを検索してみた。
「効果」という文字が躍る。
もう、この「効果」という文字が躍っている段階で、 仏教との関係は最悪と言っていい。
現代社会では、その皮肉なことが考案されることもない。
まー、いい。あるネットのページがうたう 「マインドフルネスの効果」を見てみよう。
・集中力が上がる
・ストレスが軽減する
・意志力が強くなる
・免疫力が高まる
・眠りの質が良くなる
・幸福感が高まる
いいことばかりじゃないですかー。
流行するわけだ。
別のページでは、こんな一言もあった。
「マインドフルネスを続けて一番良かった点は、ストレスが減って性格が穏やかになったこと。ストレスがたまりやすい方は、試してみることをオススメします」
私は、こうしたことが書かれている大量のページの向こうを張って、本当のことを言うのがバカらしくなってきてしまった。
さて、この書きはじめた原稿をどの方向に持っていこうか・・・?
私は、ちょっと困ってしまった。
だって、幼子相手に 「おまえな、それは違うぞ」と言うのは大人げない。 オコチャマが喜んでいるのなら、 それは「ハイハイ」と見ていてあげればいいのだ。
しかし、同時に思う。
それで本当にいいのか?
危険があるんじゃないかい?
反動を無視してもいいのかい?
そこで、ここでは少しはぐらかしながら、書いてみようと思う。
どうして座るのか?(現在のマインドフルネスのことです)
そう問われたら、仏教的には次のように答える。
「私という症状」を見つめるため。
(こんな書き方して、和尚に怒られないかなー?)
“忘我”という言葉があるが、 “忘我”と「私という症状」を見つめることは、 文字の印象は逆だけど、同じベクトル上にある。
“忘我”の先にあるものは、“われ”であり、 “われ”ではないものであり、そこで、私たちは症状を見て、 “われ”の相対性を知る。
しかし、こういうことを文字にするのも少し問題がある。
今度は、“忘我”を目指すものが現れる可能性があるからだ。
そこで、禅には考案がある。
師匠「どうして、座っている?」
弟子「悟りを得るためです」
師匠のキック!!
・・・・・・・という展開。
この件については、一休宗純のすてきな言葉もある。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはするかな」
そうすると、 オコチャマのマインドフルネスの方がマシな感じもする。
「集中力が上がるし、免疫力もが高まるのよ!!」なんて言葉は、 お気楽極楽で実にいい。
しかし、「集中力が上がって、免疫力が高まる」というのが良いことなのか?
仏教では、ノーである。
そして、一言が返ってくる。
「自分をごまかすんじゃないよ」
そんな表面的な症状から逃げても、根本的な問題は何も解決しない。
熱が出たら、熱を下げる・・・というのは、 症状から逃げる手段である。
そんなことに、「座ること」が利用されている。 症状を見つめるはずのものが、逃走手段に使われる皮肉。 そして、そのことに一部の坊主が加担する皮肉。
マインドフルネスの流行には、 現代社会の皮肉が集約されていると思う。
マインドフルネス批判・入門編でした。
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