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【第19回】 「ヌミノーゼ」

ちょっと思い立って「シンクロニシティー」について勝負をつけておこうと思いました。おつきあいください。

シンクロニシティーという言葉が生まれたのは、私たちの周りで起きる偶然には何らかの意味があるのではないかとユングが気づいて研究したことにはじまる。

ユングがシンクロニシティーの体験として語っていることを確認してみよう。

私が治療していたある若い婦人は、決定的な時機に、自分が黄金の神聖甲虫(スカラベ)を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて座っていた。

突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞えた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓をノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは私達の緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫(スカラベ)に最も相似している虫で、・・・・・どこにでもいるハナムグリの類のコガネムシであったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。

『共時性:非因果的連関の原理』より

実は、ユング以前にこうした偶然を調べていた科学者がいる。

パウル・カンメラー。彼は無神論者だったため、意味のあるよう偶然は、「慣性の法則」のような力が働き起こるものだと仮定した。
そして、100例に及ぶ偶然を収集し『連続の法則』という本で発表した。

ユングは、このカンメラーの研究に対して批判し、「無意味な偶然の集合とは区別されねばならない意味のある偶然の一致は、元型的な基盤を持っている」と考えた。

つまり、ユングはカンメラーが「おおー、これは凄い!何か意味があるぞー」と騒いだ100例の偶然を「そんなものは意味がない」と言ったというわけである。

この態度は、現在、なんでも「シンクロニシティーだ!!!」と騒ぐ者を「ペドワック」という造語を作り批判するドーキンスと同じ態度である。

私が何でもかんでも「シンクロニシティー」と騒ぐ行為をオバカ!と言っているのはご存じの方が多いと思うが、ご本尊のユングがそう言っているのだから当然のことなのです。
では、ペドワックとシンクロニシティーを分ける境界はどこにあるのだろうか?

例えば、エドガー・アラン・ポーの小説で描かれたR・パーカーという人が他の男たちに食糧として食べられてしまうという話が46年後に本当に起きてしまった偶然は?

暗殺されたリンカーンの秘書の名がケネディーで、ケネディーの秘書の名がリンカーンの偶然は?

この2人の大統領の次の大統領がどちらもジョンソンの偶然は?

身近な例でもいい。

「相談したいなーぁ」と顔を浮かべていた人が、乗っていた列車に途中の駅で乗車してきた偶然は?

昨日友人と議論になったことが、翌朝テレビで特集されて問題が解決してしまった偶然は?

さて、そうしたいろいろな偶然は、ただの偶然?それともシンクロニシティー?

統計学的には、偶然は意外に起きやすい。
私たちがそれを知らずに、ただの偶然をシンクロニシティーと騒ぐことはきっと多い。

ドイツの宗教哲学者オットーは、「ヌミノーゼ」という造語を作った。
「ヌミノーゼ」とは、人間が神に接した時感ずる「一種の薄気味悪い感じ」のことである。

私たちは、そんなに多くはないが、この「ヌミノーゼ」という感覚を体験したことがある。神など信じていないけれど、そうした何かの存在を理屈抜きで感じてしまう時がある。
一種の薄気味悪さを感じて友人と顔を見合わせることも、経験したことがあるだろう。

私は、偶然に出会い「ヌミノーゼ」を感じた時を「シンクロニシティー」と呼びたい。
それは人生において、それほど多く起こることではない。
しかし、それは間違いなくある。

そしてそれは、私たちが現実世界の理屈だけでは生きられないのだよ・・というメッセージに聞こえる。
「シンクロニシティー」は、ある次元からの警告。私はそう理解している。

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