■発行日:2006/5/30 第30号

  今週の目次
 
 1.TAROの独り言 拡大版 (第5週目は「TAROの独り言 拡大版」になります)
 
    TAROの独り言 拡大版

“自分らしさ”は正しいか?

ベストセラー『下流社会』。この本の中で三浦展さんが、
「自分らしさを求めるのは“下流”である?」
と主張しているのは面白い。

「自分らしさ志向は“下”ほど多い」そうなのである。
これは、本田健さんあたりと論争でもしてもらえると面白そうだ。

※本田健という人のことはよく知らないけど、
「好きなことして・・」みたいなことを言ってらっしゃるという前提で・・・。

実は、私は三浦論を見て気持ちが良かった。
「やっと、真実を言う人が現れた」
と思った。

まぁ、世の中、正解はないから、三浦論だけが真実と言うつもりはないが、私の44年の人生は三浦論に軍配をあげる。

どこでもそうだが、学校には早熟の人たちがいた。
恋愛が早ければ、将来のビジョンを描くことも早い。
いわゆる「大人な」子供たちである。

私のような「子供な」子供は、そんな早熟な人をよそに相変わらずである。
間違いなく、中学生くらいでは、情けないくらいのガキだった。
同い年とはいえ、その差は歴然。

この間、昔の職場に遊びに行ったら、後輩が妙に老けていた。
別に中学生に限らず、大人になっても本当の年齢と実質の年齢には大きく差があるのだろう。

早熟な子供達が、「私、早熟よ!」という顔をしだしたのは小学校6年生くらいだったように思う。
ガキな私は、ガキなりに「何で、この人たちは、ボクを置いて先にいってしまったの!」という思いはあった。
ただ、真からガキだったので、その思いは続かない。
少々ショックを受けた後は、そんなことは忘れてガキを続けた。

そんな景色を思い出したとき気づくことがある。
あの早熟な人たちはどこへ行ったのか?
私の周りを見ると、あの頃ガキだった奴らの方が、案外、人生がうまくいっているように思えるのだ。

私のガキ度は20代になっても続いた。
「努力」ということには敏感な方だったが、基本的にはガキだった。

「自分らしさ」を真剣に求める友人を横目に、
「そんなことどうでもいいじゃん!」と言っていた。
そもそも、「自分らしさ」を求める友人の底の浅さが気になった。

「言いたいことはわかるけれど、おまえは求めるもの得るために、どんな努力をしているの?」と思った。

その「自分らしさ」追求していた友人は、「自分らしさ」の呪縛に絡め取られ、
現在はとても「自分らしくない」生き方をしている。
それは、その友人だけではない。

どういう因果か、そんな人をたくさん見てきた。
そして、今も眺めることができる。

彼らのことを眺めると思うことがある。
「変わらんな・・・・・」

彼らは変わっていないのだ。
世の中はずいぶん変わってしまったけれど、彼らは数年前の「自分」でいる。
もしかしたら、それが彼らの「自分らしさ」なのかもしれない。

ガキだった私も、あいかわらずガキだ。
これだけは直らないらしい。
しかし、ずいぶん変っちまったなーと思う。
遊んでいたら、ひょんな所に顔をだした感じだ。

一体、私は何者?
最大の疑問は今日も続く。

でも、この疑問がなくなったらお終いのような気がする。
だから、「自分らしさ」になんてまったく興味がないのだ。

自分に確信が持てなくて良かったと心から思う。
やりたいこともなくて良かったと心から思う。

 

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