■2011年8月30日 第307号

第5週目のある月は増刊号!

 
 
■測定という病とエポケー

今月の『TAROくんの独り言拡大版』2回目です。
2回目なので、少しマニアックに、放射線問題を考えてみたいと思います。

現在の私たちには、当たり前のこととなってしまいましたが、
人類が測定をはじめたのは、ガリレオ以後とされています。

もちろん、ピタゴラスの定理などが紀元前に発見されているわけですから、まったく測定がなかったわけではありませんが、
「俺の家から、おまえの家までは、2kmあるからな~」
的な計測感覚は、ガリレオ以後のものだそうです。

私たちにとって、時間は、どこに行っても同じものになってしまいましたが、ガリレオ以前は、時間は典型的な相対的なものでした。
ですから、夜と昼の時間感覚は全く違うものですし、街と村、山などで時間はそれぞれ別のものでした。

私たちは、測定された時間が大前提の世界で生きていますから、
「あれー、時間が経つのが早いな〜」という会話を普通にしています。
しかし、昔は、その“変化する時間”が前提でした。
計られることのない時間は、均等でも、均質でもなかったのです。

そうした測定されなかった世界をガリレオは計りはじめました。
そして、測定はあらゆる分野に広がっていきました。

人々の世界は、こうして主観的で相対的な世界感から、
測定により客観化された絶対的な世界観に変わっていきました。

生活の必要によりはじめられた測定は、あらゆる分野に広がることで、絶対的な価値観そのものに変わっていきました。
手段に過ぎなかった測定が、絶対的なものになっていったのです。

倒錯は、あらゆる場面に広がっていきました。
心理学などにおける人間のタイプ分け、
決算書の数字を点数化する愚行、
血圧などの身体数値・・・・・・・。

このことを指摘したのがフッサールです。

では、放射線問題について考えてみましょう。
放射線問題について、このフッサールの考えを前提にすると、結論は
次のようになります(あくまでも、一つの見方なので、ご容赦を)。

放射線問題は、測定を絶対価値観とした倒錯から起きている。

ちなみに、放射線問題だから、大問題になっていますが、
この問題と同様のことは、いろいろな場面で起きています。

たとえば、健康診断。
血液検査などで、数値が異常と言われた場合です。

私も、血液検査の数値で、いくつか適正値を超えていますが、
医者は、私の数値を見て、「まー、大丈夫ですよ」と言います。

よくわかりませんが、適正値は超えているけど、
別に問題はないらしいのです。

また、私の妻が、過去に腫瘍マーカーで引っかかり、大騒ぎになったことがありますが、医者は、私たちに
「あんな検査は受けちゃいけないよ」 の一言でした。
もちろん、妻は、まったく身体に問題はありませんでした。
私たちは、「いったい、あの騒ぎは何だったのだ・・」と愚痴を言いましたが、周囲に聞いてみると、そうした空騒ぎは、そこらじゅうで起きているようです。

もちろん、こうした話は無事だから言えることです。
しかし、測定値が、絶対的なものではないことをよく現しています。

ちなみに、放射線問題でも、
健康診断の医者のような専門家は存在しました。

彼らは、当初、「今のところは問題がない」
と健康診断の数値のように言いましたが、
「今のところということは、将来はどうなんだ?」
とか、
「ウソをつくな!」
という感情的叫びに圧倒され、今では、「問題ない」発言をする
勇気ある専門家はほとんどいなくなってしまいました。

「何が事実なのか?」
このことは、昔から哲学者達が取り組んできた問題です。
どんなに事実を見ても、人々の思考には、ドクサ(=類推、憶測)が入り込みます。
そして、それは科学においてもです。
どんなに測定をしたって、その解釈は人がするのですから、私たちに
絶対的なものなんて、科学が生まれた後でもないのです。

「それを言ってはおしまいよ!」かもしれませんが、絶対的なものがない世界で、絶対的なものを追う姿は滑稽でしかありません。

専門家が、研究のために、そして、人類のために測定を続けることは
否定しませんが、それらの測定値も、最後は人間が判断するのだという現実は、ちゃんと押さえておきたいところです。

ですから、科学者の意見が分かれるのは、当たり前すぎることですが、
「血圧は、どの数値だと絶対的に健康なんだ!」と叫んでいるような
世界観の中では、誰も、当たり前のことを言えなくなってしまった・・というのが現在でしょう。

もちろん、疑うことは悪いことではありません。
デカルトもフッサールも、疑うことから事実は何かを探りました。

仮に、目の前に、お札があるとして、それが、本物かどうかを疑ってみるのは悪くありません。
そして、透かしを確認したとして、それでも本物とは思わず、精巧なニセの透かしが開発されたのかもしれないと考えるのもOKです。
さらに、日銀の窓口に持ち込んで、ニセ札ではないと確認してもらった
としても“あの日銀職員はウソをついている”と考えるのもOKです。

疑うというのは、キリがないのですから仕方がありません。
とことん疑うことを過去の哲学者達も推奨してきました。

しかし、こうして疑っていっても、判断前の事実は残ります。
お札の話で言えば、透かしがある・・という事実やbr日銀職員が「大丈夫ですよ」と言った事実は、どんなに、それを疑っても事実なのです。

そして、「まー、ここら辺が落としどころだな・・」という事実は、どこかで現れるものです。
フッサールは、こうした落としどころを“知覚直感”と呼びました。
(まー、ネーミングはどうでもいいことですが・・)

ところが、今の放射線問題では、人々は疑い続けるだけです。
そして、行政も、人々の疑いを説得することはできません。
それは当たり前のことです。
先ほども書いたように、疑うことに際限はないのですから・・。

ですから、フッサールが言うところの“知覚直感”が、人々に降りてこない。
これが問題なのです。
では、“知覚直感”は、どうすると来るのでしょうか?
それは、人々の経験からです。
しかし、人々には経験がないようなのです。
もちろん、放射線関係の経験なんてあるわけはありません。
そういう経験ではなく、
「あの人が言うのだから、信じるか・・」と言ったことがある経験とか
「疑うだけでは、意味がない。自分なりに調べてみるか・・」と言うような経験です(もちろん、今日の問題に関しては「信用できなくなった」というのが一番大きいですが・・・)。

かつてウランを採取していた人形峠で栽培された野菜は、健康野菜として売られていたことがあるそうですが、単に、昔の人は無知だったのでしょうか?
話は、ヒロシマ、ナガサキ後の話ですから、それほど無知だったとは思えません。

・・だから、安全だと言っているのではありませんよ。
聞くところによると、かつてのウラン採掘地の近くには、お年寄りは多く住んでいるそうですが、それでも、安全だと言っているのではありません。
価値観は、相対的だということを言いたいのです。
測定を絶対視するのではなく、相対化してみる。
そのことが必要になっていると思うのです。

そして、このことは、私たちの経営においても同様だと思います。
いつも、相対的な世界にいることを、経営においても忘れてはいけないと思うのです。

これから、福島原発周辺の状況がどうなるかはわかりません。
私のこうして書いたことが、吹っ飛ぶほどの大災害になる可能性も否定できません。
現在の放射線量についても、大変心配すべき水準である可能性もあります。

しかし、今一度、事実を整理することは重要です。
それも、あくまでも、すべては相対的なのだという立場で・・・・・・。

絶対を求めている限り、解決なんてありません。
それは、何もかもを一生否定することです。
人の生き方が、そうあってはならない・・と私は思います。

岡本 吏郎

 
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