■2012年9月18日 第364号

1.TAROの独り言
2.どうして、こんなに予言的?
・・・たのもしさ
3.まーけ塾レポート
・・・(6)中年無業者と郊外型コミュニティーの崩壊の意味 
4.Q&A
・・・消費税増税法案が可決
5.しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
・・・『セネカ』
6.砂漠の中から本を探す
・・・『もうダマされないための“科学”講義』
7.TAROの迷い言

 

■たのもしさ

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このまま行ったら、『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

(三島由紀夫)

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以前、文藝春秋の『日本の自殺』という論文を紹介した(一部引用もさせてもらった)。
2012年の文藝春秋は、あの論文を1975年に発表したと自慢げだが、別に文藝春秋ばかりではなく、当時は、そういう時代だったと私は言い切らせていただいた。雑誌の自画自賛など言った者勝ちみたいなところがあるのだ(雑誌以外でもそうね・・)。

文藝春秋が「予言した」と自画自賛する論文の5年前に、三島由紀夫はもっと深い予言をしている。
文藝春秋が、E・ホールのパクリやプラトンの引用などで紙数ばかりが多いのに対して、三島由紀夫の予言は、行間に多くの含みがあり、意味深である。

おそらく、三島の予言の通り、既に日本はなくなってしまっているのかもしれない。

ところで、「口をきく気にもなれなくなって」、日本を脱出した有名人の一人に大橋巨泉がいる。
彼は、テレビの黎明期を作った一人だが、その後のテレビの行く先に「口をきく気にもなれなくなって」、最後には創作意欲をなくしてしまった。

三島は、「口をきく気にもなれなくなって」、自殺をし、多くの良識ある人たちも、「口をきく気にもなれなくなって」、ただ消えていったり、個人的な妄想に始終するようになった(もちろん、例外もある)。

司馬遼太郎は例外だった(他にもいるだろうけど、私は知らない)。そして、「21世紀を生きる君たちへ」を書いた。

司馬は、三島が嫌ったことを20世紀的なものとしてとらえ、その消滅と21世紀の期待を書いた。
そして、キーワードとして「たのもしさ」という言葉を提起した。彼が描く明るい21世紀は、「たのもしさ」が必要条件なのだ。

「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない」ではなく、「たのもしさ」である。

今の日本に、「たのもしさ」はない。
・・というか、私たちは「たのもしさ」というものを見たことがあるのだろうか?

「たのもしい」と感じる・・という感覚を生まれてから何回体験したか?

「オレって、案外、“たのもしい”」という感覚を何回感じたことがあるか?

おそらく、私も含めて、ほとんどの人が、まるでないか、一回か二回くらいではないだろうか?

「たのもしい」という言葉と似た言葉に「さすが!」という言葉がある。しかし、この言葉のニュアンスはまるで反対だ。
私たちが、「さすが!」と言う言葉を使う時、そこには三島が嫌った「抜け目なさ」を見ているところがある(と私は思う)。

「さすが!」は21世紀にもたくさんあるが、「たのもしさ」はなかなかないのだ

では、「たのもしさ」を探してみよう。
あなたの近所に「たのもしさ」を感じるものがあるだろうか?

司馬が言うには、鎌倉武士は「たのもしさ」という言葉を大切にしてきたという。
しかし、私たち21世紀人は、三島の嫌う「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない」を大切にしてきてしまった。

争いたくないから、「からっぽ」や「ニュートラル」を決め込み、「抜け目さな」を“才能”とか“仕事ができる”と呼び、「富裕」を賞賛してきた。

日本は、三島が言うように、すでになくなっていたのだ。

三島の嫌う「無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない」という言葉を一言で表現してみよう。

        「引きこもり」

私たち21世紀の日本人は、なくなってしまった日本に気づき、その不安定感から「引きこもり」をしているのである。

もちろん、この態度は、鎌倉武士の愛する言葉とは真逆である。

しかし、このことに気づくことは大変意味のあることだ。

なぜならば、司馬の描く明るい21世紀の条件は明確だからだ。
「たのもしさ」を持てばよいのだ。

周りが「引きこもり」なのだから、その環境で「たのもしさ」を持った者の人生がどうなるかは明確だ。必ず、明るくなることだろう。

ドラッカーやパールズは、このことを「責任」とよび、ジェームズは「指向性」と呼び、ハイデガーは「存在」と呼んだ。

司馬が描く明るい21世紀は、みんなのものではないかもしれない。しかし、このことに気づいた者の21世紀は明るいと思う。

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