■ポニョに選ばれなかった日本人
2008年7月19日、『崖の上のポニョ』が公開された。
ジブリ絵によるほのぼのとした雰囲気のため子供向けのアニメとして誰もが楽しめるものだったが、描かれている内容は「死と再生」。
いくらかエッダ(北欧神話)の片鱗は見えたものの、多くの人は、その子供向けとは言えない内容には気づかなかった・・。
しかし、2011年3月11日、東北で大震災が起こると、このアニメの評価は変わった。
本当は、「最初から、そういう内容だったんだよ」というだけなのだが、震災後のテレビ放映では賛否両論まで起こる始末。
そんなエピソードも含めて、このアニメは神話なのだ・・・。
民俗学者の宮田登氏は、日本の民間信仰の特徴として、終末感の希薄さを指摘している。
例えば、日本で地震をもたらす生き物と言えばナマズである。
死や破壊をもたらすナマズだが、絵などに描かれるナマズの顔つきはマヌケであったり、可愛かったりする。恐ろしい雰囲気で地震を起こしているナマズの絵など私は見たことがない。
ポニョには、そんなナマズな感じがある。
アニメで描かれる大災害がどういう経緯で起きたのかはわからないが、そこにポニョが絡んでいるのは、ほぼ間違いないだろう。
そして、ポニョは、アニメの中で大災害と戯れる。
並行して、老人ホームでの避難のシーンも描かれているから、かなりの大災害であることは間違いない。それに、老人ホームの老人たちと主人公の母は一度死んだと解釈していいと思うが、そんな悲惨な災害の悲劇をアニメは、楽しく、スピーディーに描く。
宮田氏が日本の民間信仰の特徴として指摘していることが、宮崎アニメでも同様に展開していたわけである。
『崖の上のポニョ』は、アンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフとした作品とされている。
宮崎駿は、「製作中に『人魚姫』の話に似ていると気付いたものの、元来意図的にベースとしたわけではない。」と発言しているから最初からモチーフにしていたわけではないらしい。
だから、このアニメにはエッダ(北欧神話)の片鱗があり、ポニョは、ナマズで、人魚姫で、そして、ワルキューレの一人であるブリュンヒルデである・・ということに作者本人は気づいていないかもしれない。
『超時空要塞マクロス』に登場するロボットに変形する戦闘機の名前バルキリーは、ワルキューレの英語読みだが、そのワルキューレの仕事とは、戦場での勝敗を決め、死者を主神オーディンに送ることだ。
ブリュンヒルデは、そのワルキューレの長女で、人魚姫同様に人間と恋に落ちる存在だ。
ポニョは、アニメ上で、このワルキューレの仕事を忠実に果たしていた。
もう一度、民俗学者の宮田登氏の指摘に戻ろう。
日本の民間信仰が描く破壊にユーモアがあるのはどうしてだろうか?
これは答えは簡単だ。
日本の民間信仰が、「死」よりも「再生」に焦点を当てているからだ。
だから、ナマズは破壊をもたらすと同時に、庶民の味方として描かれることも多い。
破壊は、過剰に積み上がったものをゼロに帰し、そして、「再生」をもたらすのである。
『崖の上のポニョ』も再生を描いた。
人間になって主人公の宗介と一緒に暮らそうとするポニョ。
しかし、宗介のポニョに対する愛が揺らげば、ポニョは泡となってしまう。
ポニョと宗介は、ポニョの母の元にたどりつき(ヨミの国?)、
宗介は「ポニョの正体が半魚人でも好きか」と問われ、
ポニョは「人間になることで魔法を失ってもよいか」と問われる。
そして、二人は揺らぎのない愛を示し、ポニョは人間になる。同時に、死んだ人々も再生する。
今、日本人は、『崖の上のポニョ』が描いた「再生」に気づかない。
日本人は、「便利な文明の正体の底流には、汚くて嫌なものがたくさん流れているけれど、それでも好きか?」と問われて、その汚く嫌なものだけを拒絶する。
「原発をなくすことで、今の生活を失ってもよいか」の問いに、「原発は嫌だ。でも、生活水準は落としたくない」と答える。
だから、日本では、再生がはじまらない・・・・・・・・・・。
日本人は、古代に植えこまれた「再生」の元型を拒絶したのだ。
・・というか「再生」の元型から選ばれなかった・・と言ったほうが正しいだろう。
ユングは、彼の元型論で、私たちは元型に抗えないと言った。
一旦、元型に選ばれれば、最早、元型の支配下で私たちには自動操縦が起こる。
宮崎駿が5年も前に、提示した神話(=元型)は、娯楽向けのアニメとしてだけ機能した。また、大震災後には、自然災害を恐れる者たちに忌み嫌われた。
元型は、私たちを選んではくれなかった。
では、私たちは、何の元型に選ばれたのだろうか?
その問を発すると、感じることがある。
破壊は続く・・・・・・・・。
そう思えてくるのだ。
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