■2013年9月17日 第417号

1.TAROの独り言
2.どうして、こんなに予言的?
・・・敗北は楽しい。しかし、バカは伝染する
3.まーけ塾レポート
・・・(13)20万円のお茶のニーズ
4.Q&A
・・・古典について
5.しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
・・・『早川 義夫』
6.砂漠の中から本を探す
・・・『ずる』
7.TAROの迷い言

 
 

■敗北は楽しい。しかし、バカは伝染する


映画は現代で最も普遍的な娯楽だ。
しかし、あまりに深入りすると、この無警戒状態が慢性になり、次のような心理が形成される。

何事でも「早くて、わかりやすくて、面白く」という意味での受動的心理である。

・・・知的努力の省略は映画によって最も典型的に促進される。

私の惧れるのは映画を見るそのことでなく、それによって形成された心理が、もの事や人間の価値判断の基準になることである。

亀井勝一郎


 

「また、亀井かよー」
「また、世の中が軽薄短小って話かよー」
「こっから、ビジネス書はダメだって話に行くんだろー」
という声が聞こえてきそうだが、この亀井の言葉は、時代の予言として、どうしても触れておきたかった言葉なのでご容赦を。

この亀井の言葉は、昭和29年に書かれたものである。
彼は、「20世紀の日本人の可能性」というテーマの序論として「精神の危機」について書き、そこでこの文章を冒頭に置いている。

この彼の言葉は、20世紀どころか、「21世紀の日本人の可能性」というテーマの序論として書かれたとしてもおかしくない。
“映画”という部分に、いろいろな言葉が入る程度の差である。

それも、「それによって形成された心理が、もの事や人間の価値判断の基準になることである」という方向に、日本人が大きく旋回をはじめたのは、1995年頃からだと私は思う。そして、その頃はちょうど「ゆとり教育」の効果が出だした時点だと理解している。

脳みそは汗をかく

私がこのことに気づいたのは、32歳くらい頃だ。
その汗は、水分として私の身体から出てくるわけではないけれど、運動の後の「あー、いい汗をかいたな~」という感覚と同じ性格のものだった。そして、汗をかいた後のビールが格別なのと同様だ。
今では、この体験をご縁のある人に体験をしてもらいたい考えて、軽井沢での合宿セミナーもやっている。それも早いもので10年以上がたった。

さらに、身体の汗と性格が同じなのは、遠ざかると億劫になることだ。

運動はしなれないと、ドンドン遠ざかるようになる。
しなれない運動は辛い。
さらに困ったことに、休むと衰える。

このことは、そのまま脳にも当てはまる。
しなれない思考は辛い。
読み慣れない本も辛いし、面倒な映画や芝居は眠くなるだけだ。

ところが、運動不足については、ほとんどの人がマズイことだと理解しながら、“知的努力の省略”については、ほとんどの人が無視をしている。

そして、「この映画難しくって嫌だ」とか「この本は眠くなる」という言葉を平気で言う。
さも、バカの方が偉いのだ!と言う言いっぷりで・・・・・・。

運動不足については、「すいませんねー、全然、運動していないものですから・・・」と反省しながら言う場面に出会うことになるが、知的なものは逆だ。
「あー、どうせ、私は知りませんよ!」と無知を威張る場面の方が圧倒的に多い(笑)。

したがって、その差は見えないほどに大きくなる。
運動をしている人としていない人の差が、生活の支障として現れるのは、年を取ってからになる。
しかし、知的なものは、その差が出るのが早い。その差が非常に短期間のうちに現れるというのに、それでも、一度、知的なものに近づかない・・と断固として決めた人の行動は変わらない。

そして、その快楽主義、近道主義者の行く先には、詐欺師が笑って待っていることになっている。

稼ぐ人は長い財布を使う・・・のような「あのね、冗談も休み休み言いなさい!」というような本にいたっては、書いている本人も本気で信じている風だったり
して、意図せずに詐欺師になっていったりするケースもある。最近は、知的省略の輩の善意の方が詐欺師よりも質が悪かったりする。

そういえば、「バカは伝染る」ということが、昔、マンガや漫才などで言われていたけれど、21世紀の今は、本当に、バカが伝染るということなのだろう。

亀井が言ったように「それによって形成された心理が、もの事や人間の価値判断の基準になる」のだから、伝染って当然といえば当然だ。

さらに、このバカの伝染を拡大する悪いものがある。

それを「知的好奇心」という。
本当を言うと“知的”でもなんでもないのだが、一応、世間一般の表現にしたがっておこう。

本来は、「知的好奇心」は重要だ。
これこそが、人間の知的生活の原動力である。
しかし、“知的”という部分がカッコにくくられてしまった現代の「知的好奇心」には、“好奇心の分散”という悪弊がある。
これも亀井が指摘していることだが、分散した好奇心は判断力を失わせる、つまり一種の自己喪失になる。
このことは、スピリチュアル系のおかしな思考に囚われている人を観察すればよくわかるところだ。

“判断”ということが省略された単なる躁的好奇心のため、本気で、稼ぐ人は長い財布を使うと信じてしまうわけである。
逆説的だが、好奇心が旺盛な人のほうが、自己喪失を起こしているのである。
そして、バカは伝染るのである。

私は、東京のマンションの近くに良いジムをみつけ、時間のある時に行くようになってから驚いてることがたくさんある。
特に、どんなに一生懸命運動しても我流でやっていては効果がない・・ということに気づいたのはよかった。
危うく、私は体を壊すために運動をするところだったわけだ。

運動をする→体を壊す
好奇心が旺盛→自己喪失

この2つはベクトルが一緒だ。
みんな、良かれと思ってやっているけど、効果は逆・・という恐ろしいことになっているわけである。

しかし、運動には、トレーナーがいるけれど、知的作業にトレーナーはいらない。
覚悟さえあれば、独力で十分だ。
要は、負ける準備ができているかどうかだけである。

「早くて、わかりやすくて、面白い」ことを排除して、歯がたたないものに向かっていくだけでいいのだ。
そもそも、練習とは負けることである。

どうも、世間では、練習とは「できるようになること」と思っている節があるが、それは絶対に違う(と思う)。
「あーー、あーー、全然、ダメじゃん」というのを味わうのが練習だ。
これは道徳的なことを言っているのではなくて、そうなのだから仕方がない。

毎度言っていますが、私はギターという楽器が好きで、最近は、若いころ同様に、毎日のように弾いている。
そして、毎朝、「あーー、あーー、全然、ダメじゃん」を味わっている。
この味わいが良い!
なぜなら、どういうわけか、「できない」を経験すると、次かその次かには、それができてしまうからである(もちろん、その次でもできないことはあるが、いつかはできる)。
ここには道徳的な要素がない。
別に、道徳的な理想論で「できない」を経験すると言っているわけではないのだ。「できない」と「できる」から、そうやると良いと言っているのである。

これだと話は簡単だ。
できる必要はない。
できようとすると大変だが、できない方がいいのだから、こんな楽なことはない。
だいたい、いきなり、できる・・とロクなことがないことも経験上知っているので、とにかく、「できない」のが歓迎なのだ。

「できない」が、上達の過程だと知らない人はいない。しかし、多くの人は、「できない」を経験すると喜ばないで悲しむようで、次には、同じ練習をしようとしないらしい。
なんてもったいないことなのだろう。

知的な作業も同様だ。
「わからない」が重要。
一晩寝れば、わかるのだ。
要は、その前に諦めてしまうだけ。
運動よりも簡単なのである。

好奇心なんて吹っ飛んでしまうくらいの敗北を味わおう。
それがどうしても必要なのだ。
脳が汗をかくのは、そういう時ときまっている・・。

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