■価値の価値転換
私は私、私の著書は私の著書、両者はそれぞれ別のものだ。
私は、この一言ではじまるニーチェのダラダラした言い回しが、嫌いではない。いやいや好きである。続きを引用しよう。
・・・・私の著書そのものについて語る前に、ここで、この著書が理解されることと理解されていないこととについていささか触れておこう。
もっともそれも出たとこ勝負のぞんざいな触れ方しかできない。
なにしろ、この問題に触れるのはまだ早すぎるのだから。
私の著書どころか、私自身だって生まれて来るのが早すぎたのだ。
死んで遺稿集が出てからやっと生き始めるような人だっている。・・・・・
ニーチェは、宣言する。
「どうせ、わかんないでしょ!」
「まあねー、ボクの書いたことは、将来、解釈のために特別な講座がいくつか設けられるからね!」
彼の文章がわかるということは、人間の一つ高い段階へと上昇したことを意味する。彼はそう言って憚らなかった。
彼のこの文章の表題は、
「なぜ、私はこんなに良い本を書くのか」
である。
この文章には、彼の「モノにしたぞー」という実感がよく表れている。
他者の評価は置いておいて、自分の実感が全て。「私が宇宙」という気分で彼はいっぱいだ。
『ツァラトゥストラはこう言った』を書いた後の彼は無敵だったのだ。なにせ未来人だからね・・。
しかし、同時に、「わからんだろうなー」という何とも困った気分も彼は持つことになった。
ニーチェは、彼が言うところの「価値の価値転換」を手に入れた。
それがどういうものかはわからないが、彼が修業と呼ぶ体験から手に入れた力の一つだ。
彼は、“生”を新たに発見し、ほかの人ではたやすく味わえないような良きものなどをすっかり味わった。そして、哲学を作りだした。
彼が経験から導き出した哲学だから、経験のない者にはわからない。
特別な講座が作られても、わかるものではないだろう。
つまり、ニーチェの気分は、私たちが子供になにか言う時のものと同じだ。
「まだ、おまえにはわからないかもしれないけどね・・」
という枕言葉をつけて何かを話す時の私たちの気分だ。
こうして考えてみると、ニーチェの気分がよくわかる。
わかりすぎるくらいである。
ニーチェは、「“価値の価値転換”さえすればよかったのに・・」と言う。
私たちは、「経験さえあればね・・・」と言う。
・・・・・・
春に出版した『長く稼ぐ会社だけがやっている「あたりまえ」の経営』の最後に言葉を引用した東邦薬品創業者の松谷義範が「お金を増やす法」について語っているくだりがある。
・・・・・・・、これからが肝心なのだ。
毎日寝床に就く前に財布を開いて必ず中身の点検をする。そして、500円以下の小銭は全部貯金箱に入れる。
それでなかったら500円、50円、5円のお金だけを取り出して貯金箱に入れる。
これをどこまでも続ける。
これが将来金持ちになれるか、なれないかの分かれ道だな。
お母さんたちのヘソクリ術と同じようなものだね。
挫折しないで一年過ぎたときには、君の人生感は変わると思うよ。
「君の人生感は変わると思うよ」というのがいい。
「お金持ちになるよ」とは言わないで、「君の人生感は変わると思うよ」と言う。
この言葉は真実だ。
あくまでも「将来金持ちになれるか、なれないかの分かれ道」でしかない。
しかし、この体感には「君の人生感は変わると思うよ」と言うだけのものがある。
これは、ニーチェの「“価値の価値転換”さえすればよかったのに・・」である。
私たちは、安易に、「経験を積めば・・」と言う。
しかし、これではダメなのだ。
世の中のたくさんの『ツァラトゥストラはこう言った』(=難しいもの)をわかるには、「価値の価値転換」が必要だ。
つまり、「価値の価値転換」が起こるほどの体験が必要だ。
では、「価値の価値転換」はどうしたら手にはいるのだろうか?
簡単である。
「挫折しないで一年過ぎたとき」の先にある。
“食い散らかし”、“良いとこ取り”をしている限り、何も起こらない。
多くの知恵は、「安全な場所にいないで、こっちに来い」と言っている。
表面上は簡単そうだが、ニーチェが修業と表現するだけのものがある。
世の中の何もかもがそうなのだ。
だから、なめている奴は、何もわからないまま人生を終えるようになっているのだろう。耳の痛い話だ・・。
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