■種を植える
映画『6才のボクが、大人になるまで』は、挑戦的な映画だった。
映画の紹介には次のように書かれている。
6歳の少年メイソンの成長とその家族の変遷を、 主人公や両親を演じた俳優など、同じキャストとともに 12年にわたって撮り続けるという斬新な手法で描く。
では、その映画は12年の歳月を使って何を撮ろうとしたのか?
話は変わって、久しぶりに家族で集まって小さな旅行をした。
我が家の子供達は、大学生二人と高校生一人(旅行当時)。
ずいぶん大きくなってしまったもので、私たち夫婦を相手に一丁前のことを恥ずかしげもなく話している。
そんな彼らの姿を見ていたら、彼らと私たちの年齢的な距離は それほどにはないことに気づいてしまった。
もちろん、彼らから見たら、私たち夫婦の年齢はとても遠い年齢だ。
はるか未来のことで、自分の人生にソレがやってくるという実感などはない。
しかし、私たち夫婦から見ると、そうではない。
彼らの年齢はほんのちょっと前の過去のことでしかなくて、 高校時代も大学時代もついこの間のことである。
今は、はっきりわかるが、高校時代も大学時代もついこの間のことだった・・と断言できる。
それはノスタルジーでも勘違いでもない。シンプルな事実である。
セネカが言うように、人生はとても短いのだ。
だから、私は心の中で思った。
「お前たちもお父さんたちも、年齢的には大して差はないんだよ・・」
向こう側から見たら、どうしても気づけないこの事実は、 こちら側から見ると、見え過ぎるくらいによく見える。
中には、こちら側に立っても、それに気づかないようにしている人もいるようだけれど、私と我が子には、親子という関係性がある以外に何もない。
私は、彼らに対して特別に偉そうに振るまう道理など、どこにもないのだ。
もちろん、彼らには社会経験が少ない。
社会経験の量を測ればまだまだ大きな差ではある。
しかし、そんなものはその気になればすぐに追い付くことができる。
実は、社会経験の量も、向こう側とこちら側からでは見え方が違う。
年齢同様に、向こうから見ると、とても大きな壁があるように見えるが、こっちから見たらそれほどのものではない。
だから、彼らから見れば、彼らが父と同じようになることは遠い未来だろう。一生達せられないことのように思えるかもしれない。
しかし、実は現実にはそうではない。それはほんの微差でしかない。
私たちが努力をやめてしまう理由はここにある。
こっちにいるのに、向こうの視野で物事を見ているからだ。
そして、一部の人間が努力を止めない理由もここにある。
こっち側の視野で物事を見れば、その距離があまりにも短いので、 いてもたってもいられなくなって当然だ。
微差を微差のままに追いつかれるか、 微差を大きな差にするかはここで決まる。
いずれにしても、目の前にいる子どもたちは、 自覚さえ維持できれば、すぐに私たちに追いついてくるだろう。
私は、このことに気づいた瞬間、父としての態度は、 少しずつ終わりにしようと思った。
もちろん、自分の経験を絶対視するのも意味はない。
私の経験など、しれているのである。
しかし、微差とはいえ、小物の私でも培ったものはある。
それを人生の先輩としてどう伝えるかは重要だと思っている。
私が就職した時も、5つ上の先輩が指導にあたってくれたが、 それくらいの年齢差を想定してアドバイスをするのがちょうどいい ような気がする。
映画『6才のボクが、大人になるまで』は、微分を描いた映画だと 思う。
人生とは、年齢ではなく、微分量なのだ。
ここで微分量と表現していることを、誤解を承知で一般的な表現で 言うと、成長度のようなものになるか・・・?
だから、映画は「一瞬を大切に」という言葉に疑問を投げる。
「大切にするってなによー」という感じである。
「そんなものしてもしかたないでしょー」という感じである。
この映画は、主人公の子供の成長以上に、父の成長を伝えている。
子供も大人になろうとしているが、それ以上に父が大人になったのだ。
母はサバイバルに明け暮れ、三人目の夫は見当違いの時間の使い方に始終し、二人目の夫はDVにひた走る・・。
そして、あっという間に時はすぎる。
それも、それを知るのは子供が旅立つとき。
それまでは、一瞬がナントカカントカなどと言ってられない。
どれもこれもが、微分の積み重ね。それは一瞬の積み重ねとは違う。
この原稿は、休みの朝に書いている。
6時からNHKのニュースがいつものようにはじまり、 私もいつものように朝を過ごしている。
そんな朝に考えることは、 「今日はどういう微分が積み重ねられるか」ということ。
今日一日が終わった時、少しは進歩しているのだろうか・・という 気分である。
進歩なんて漸進するものなので、どうでもいいけれど、 その気分は大事だ。
要は、毎日、種を植えるということだろうか。
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