2015年7月14日 第514号

目 次
  1. TAROの独り言
  2. コブラツイストは、ツボに効く
    ・・・あいかわらず
  3. まーけ塾レポート
    ・・・3.さて、円安か、円高か・・・・・・・
  4. Q&A
    ・・・派遣労働法改正
  5. しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
    ・・・『ストリンドベリイ』 
  6. 砂漠の中から本を探す
    ・・・『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』
  7. 構造で映画を見る。時々、いいかげんに映画を見る。
    ・・・『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』
  8. TAROの迷い言
2. コブラツイストは、ツボに効く

■あいかわらず

過去の私は、周囲と比べて相当にヤバかったと思っている。
「よくまー、生きてきたなー」と心から思う。

もちろん、今だってそれほど変わったわけではなく、
なんとか少しはマシになりたいと思っているけれど、
過去の自分のダメさ加減というのは、相当なものだった。

ところで、我が家のバカ息子は、
形容詞の「バカ」が今一番似合う奴のように思う。
無理して地元の進学校に潜り込んだけれど、
潜り込んだだけで浮かんでこない。
よく窒息しないで海の底にへばり付いているなーと感心していたが、最近、状況が変わってきた。

うちのバカ息子(バカが一番似合う奴)は、
なーーーんにも変わらないのだが、周りがドンドン落ちてきている。
それもその量は大量で、ずいぶん水位が下がってきたので、
何とか呼吸ができるようになったように思える。

なるほどねー、比較の世界というのはこういうものなんだなーと
感嘆しつつ、自分の身に起きたこともこれだと気づいた。

ここで一人の我が親友に登場してもらおう。
彼と私は高校時代から、あらゆる情報を交換し、
お互いに切磋琢磨した仲だった。
ある面、相当ヤバかった私ごときに声をかけてくれて、
共に学ぶことの楽しさを教えてくれたのは彼かもしれない。

元々、読書好きだった私が、あらゆるジャンルに食指を伸ばして
いき、彼と実行していた読書競争が大きかったと思う。
吉川英治の『三国志』全8巻などを競争して読んで、
徹夜して読みふけっていたのが懐かしい。

そして、社会人になってからも、彼とは知的な情報の交換をお互いにしながら過ごしていた。
しかし、その状況が過去のものになった・・と思った瞬間を私は忘れない。

その瞬間は彼の「岡本、なんかお勧めの本ない?」という質問に私が答えられなかった・・・・という形でやってきた。

もちろん、お勧めの本がなかったわけではない。
その時の彼に勧める本がなかった・・・・・・・・・。
私は、この時、とても悲しくなったことを覚えている。

彼の知的生活がいつ終了したのかはわからない。
確か、当時はお互いに30代の半ばくらい。そして、私が彼の後退をはっきりと認識するのは、それから5年ほど後のことになる。

それでも、当時の私は彼にはっきり言っている。
「勧めたい本はある。しかし、今のお前には読めないと思う。きっとツマラナイと言うと思うし、そもそもどうして勧めたのかさえわからないと思う」

はっきりとは認識していなかったが、私の奥底の気持ちは、
気づいていたのだ・・・。

それからも彼との長い付き合いは続いたし、今も続いてはいる。
しかし、最早、二人で知的会話を楽しむような場面はない。
最早、「お互い、年取ったよな〜」という会話にしかならない。
果たして、これを友と呼んでいいのか?
その疑問を持ちながら、私はある種のチャンスを狙っている。
それは、彼が私の元に再び戻ってくれること・・だ。

しかし、それはないのだと思う。
一度スピードを緩めれば、最早元に戻るには、苦労は並大抵では
ない。
53歳の今、それはすでに遅いのではないかと思うのだ・・・・・・・。

息子はあいかわらずのバカで、放課後に科学の先生のところに
行って、一緒にコンニャクを作ったり本格的に料理したりして
過ごしているようだ。

それでも、あいかわらずのバカは、あいかわらず、あいかわらずで、あいかわらず何かしているようで、落ちてきた周辺を横目に
マイペースを決め込んでいる。
意外にも落ちていかないのは、すでに底に着いているからなのかどうかはわからないが、周囲がそれより落ちていっている要素を見ると、何とか犬かきで浮いているようである。

親父の私もあいかわらずで、息子に背を越されたことに憤りつつ、
「タダメシ食ってるくせしやがって・・・」
程度のことしか言えずにいる。
要は、あいかわらずの息子同様に、あいかわらずだ。

しかし、あいかわらず・・というのは
悪いことではないらしい・・・・・。
それはそれで、エネルギーが必要なのだ。

もちろん、人は変化せねばならないけれど、
その変化が悪い方にいくくらいなら、そのままの方がいい。

要は、“そのまま”について、
それなりの本意があるかどうかだけである。

私は、今、60歳の視点で、自分の“あいかわらず”を精査している。
今の“あいかわらず”は、後の私を作る“あいかわらず”だから、
60歳の私から見た必然がなくてはならない。

40代まではガムシャラで良かったが、そろそろオプションがなくなってきているから、精査は必要だし、新しいものよりも、長年耐えてきた“あいかわらず”の方が貴重なのだ。

そして、それは若い息子も同様で、
人生のキーになる“あいかわらず”であるならば、堂々とやり続けるのでいいのだと思う。

この年になってわかることが多くて腹が立つが、“やめる”こととは、未来を捨てることにつながる可能性があるということを最近知った。

もちろん、捨てるべきものもある。
しかし、捨てるべきではないものもある。
それを未来からの視点で意図的に毎日選択する必要があるのだ。

私は少しツイていたと思う。
友人が捨てた学生時代からの習慣を捨てなかった。
この一事を得ただけで、とにかくここまで来れた。
誰も教えてくれなかったけれど、
それを続けてきたのは奇跡に近い気がする。

だって、周辺のほとんどの人がやめてしまっているのだから・・・。

目次に戻る
このページを閉じる