■少し知っている
「少し知っている」ということは、 考えようによってはたいへん恐ろしいことである。
(西堀 栄三郎)
西堀栄三郎が第一次南極越冬隊長として南極で過ごした時の感想で ある。
彼らは、 『知っていると思っていることが、本当はわかっていないのだ』 ということがわかるまでに、それほど時間がかからなかったらしい。
それほどに、南極の大自然は厳しかったのだろう。
彼らの小さな知識はズタズタに切り裂かれたのだと思う。
以前、『VIPミーティング』で、あるワークを行った。
そして、説明も含めたひと通りの流れが終わった休憩時間に、 ある人が私に言った。
「今やったことって、ミッション経営ですよね」
私は一瞬力が抜けてしまったが、彼の問いに答えた。
「まー、そう考えてもいいんじゃないですか・・」
実は、私が1時間ほどかけて話したことは、ミッション経営とは真逆のことだったのだけれど、この人はその真逆の意味で私の言っていることを捉えた。
おそらく、彼には、ミッション経営の知識があったからだろう。
自分の知っている小さな知識で、あらゆるものを見ようとするのは 人の悪い癖である。
南極のような大自然の下ではないから、その態度が事故を起こすことはないが、静かにゆっくり沈み込んでいるはずだ。
「少し知っている」というのは、恐ろしい・・。
これを一般に知識の弊害と呼ぶ。
現在、日本中がこの病に侵されている。
便利な世の中になって、私たちは、少し知っているだけで生活が できるようになった。
車に乗れば変速は勝手に車がやってくれるし、ナビもついている。
もう若い世代の中には、マニュアルの車には乗れない人もいることだろう。
でも、運転はできてしまうのである。
世の中は、どんどん複雑になっている。
あらゆるものがコンポーネント化していって、 専門家でも修理ができないものも多いし、 グローバル化だの、自由化だの、あらゆる垣根がなくなってきて 複雑性は増すばかりだ。
そして、複雑さは、さらなる複雑さを呼ぶ。
最早、私たちの目の前に単純なモデルなど存在しない。
しかし、世の中がどんどん複雑になっているというのに、 私たちはバカになっている。
多くのことを大して知りもしないのに、 知っている気になって過ごしている。
それができちゃう世の中なのだ。
しかし、それは世の中が理想通りに回っている時のお話。
南極の大自然のようなものが降りかかれば、 その中途半端な知識が自分の首を締めることになる。
実は、私たちが生きている世界の本当の姿は、 浅はかな知識では生きていけない世界になっている。
普段は牙を向かないが、「ミッション経営ですよねー」なんて言っていると、足を掬われることが起こるものである。
ミッション経営のもう一つの問題は、分類だ。
病理的な人は区分を好む。
A型とかB型と言っているのもそうだし、朝の星占いを見て一喜一憂しているのもそうだ。
すでに、ジャズという音楽が大きくメタモルフォーゼを起こして 久しい。
しかし、ジャズがずいぶんその佇まいを変えてしまった頃から、 懐古的なジャズが「こういうのってオシャレでしょ!」という感じで、スタバあたりで普通に耳にするようになった。
ニューヨークの有名ジャズクラブは単なる観光地で、 そこで最先端のジャズを聞くことは不可能。
「スタバで流れているような音楽だけはやりたくない」と言っているフライング・ロータスがジャズクラブでギグを行っていたら、 ちょっと違うよなーと思うはずだ。
つまり、みんなが区分を認知した時には、 その区分はすでに死んでいる。
複雑な世の中は区分なんてできないから、 止まっているものしか区分ができないのだ。
区分を好むようになったら、最早、 時代はずっと先に行ってしまっているのである。
それも、人は「少し知っている」というレベルで、 ミッション経営とか言って区分してしまうわけで、 その区分のセンスは甚だ悪い。
西堀栄三郎は南極での体験から、 「何の先入観も持たないで虚心坦懐に物事を見つめるという態度を会得した」と言う。
あらゆる物事がラベリングされてしまう現在(そのこと自体が、時代の病理を表現している)、私たちに必要なのは、この西堀が得たセンスだ。
知識による区分は見るものを限定する。
そして、目の前にあるものを「少し知っている」から判断する。
それでは世界は見えてこない。
スローンがGMのトップになった時、彼が自動車会社に対する 「少し知っている」から、理想の自動車会社を描いたら、 GMの逆転劇は起きなかっただろう。
スカリーがニュートンで失敗して、 ジョブズがiPhoneでうまくやった理由も同じことだろう。
知るならば、徹底的に知るべきだ。
知らぬなら、知らぬ方がいい。
こういう社会だから、このことは改めて確認しておきたい。
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