■少数派の逆襲
町外れの
古い里程標が立つあたり。
今や異邦人となった私は、
薄暗い幽霊の出そうな森影をながめている。
町が変わったのか、私が変わったのか。
ああ、樫の木は緑の若葉をそよがせる。
けれど、この藪で遊んだ仲間たちは、
長い月日の間に、
心通わぬ人々になってしまったのだ。
(ヘンリー・W・ロングフェロー)
この詩は、 「変わってしまった」という詩の冒頭部分を抜粋したものらしい。
作家ヘンリー・W・ロングフェローが50才の時に故郷を訪れた時のものである。
53才の私は、このテキストを見て考えた。
「俺の中に、“変わってしまった”という感覚はあるか?」
ある・・と言えばあるし、ない・・と言えばない。
つまり、自分で思っているほどには、何も考えていないのだ。
だから、心のなかでは「変化」とか「無常」などと叫んでいるけれど、本当のところの気分は真逆なのだと思う。
私は、最近、世界の少数派のことが気になって仕方がない。
別に少数民族のことを言っているわけではない。
若者たちという少数派が気になるのだ。
そして、気づいてみたら自分が多数派の中にいることに驚いている。
私が生まれた1961年は生まれた子供が少ない。
前の年の1960年を底辺に、その周辺に生まれた子どもたちは 少数派だ。
別に、それを意識したわけではないけれど、大勢の人が持つ価値観とは常に距離があって、成長しながら少数派を意識していった。
そして、1961年生まれが少ないという統計数字も、 その少数派アイデンティティーに一役買ってくれたと思っている。
しかし、最近、思う。
私たちは、若者から見れば、十把一絡げに多数派だ。
真の少数派は、今の若者たちだけ。
彼らは生まれながらにして少数派で、私たち多数派の体たらくを 見てきた。
一度も、経済の成長を見たことがない彼らには、多数派の言っていることや、やっていることなどくだらないモノに見えるはずだ。
現に、私の若い頃はそうだった。
私は、上の世代、具体的に言うと、団塊の世代の価値観や行動が 大嫌いだった。
私の少数派意識が、団塊の世代を鏡にして培われたのは間違いがないし、彼らを否定してきたことは、正解だったと心から思っている。
ただし、私には世界を変える気はなかった。
団塊の世代の一部が行った“革命ごっこ”の成れの果てを知っているので、「世界を変える」と叫ぶ人のことは生理的に好きではない。
しかし真の少数派である今の若者たちは、やってくれると思う。
もちろん、全員がなにかするとは思えないけれど、 少数派の位置にある“構造”から起こるムーブはあると思う。
その真の少数派を前にして、エセ少数派の私は、 初めてロングフェローの詩に共感してしまった。
私は、少数派から抹殺される立場にあるのだ。
ただ、このことに気づいて私は決めた。
徹底的に、オールド・ウェーブで行こうと決めた。
私なんかは、若者たちに否定されればいいのである。
時代の大きな潮流の中で、死に滅ぼされればいいのだ。
だって、それが人類が脈々と続けてきた流れなのだから。
だから、そろそろ「ふるい~」と若者たちに言われることを、 良しとしたい。
そして、強力な抵抗勢力になってやってもいいと思う。
これから、大きなチャネル転換が起きる。メディア転換も起きる。
どちらも、そろそろ具体的なことが起こるだろう。
そして、世界的な最適化革命も待っている。
チャネルやメディアの転換も、最適化革命も、オールドウェーブを 抹殺するに相応しい小道具で、人類はさらに進歩を続ける。
その革命の主役は、当然、少数派に決まっている。
彼らは、時代から、その役目を背負わされたゆえに、少数派であり、私たちは滅ぼされる運命にあるから多数派なのだ。
多数派は無抵抗ではない。
オールド・ウェーブの精神を維持しつつ、調子の悪い部品をとっかえひっかえして、この戦いに臨むことになる。
そして、私たちオールド・ウェーブは、この革命に、 個人的勝利をおさめるはずだ。
なぜならば、革命家である若者たちは、勝たねばならないが、 私たちは負けなければいいのだから・・・・・。
後ろ向きな表現だが、 負けないように泳ぐことがこれからの勝負のコツだ。
決して、時代の潮流に迎合せず、オールドの精神を保つ。
便利なものは利用しつつ、それを絶対化しないで、 少数派の起こすことをじっと見守る。
それは私たちの存在の否定に見えるけれど、 感情的になってはいけない。
それぞれが、それぞれの仕事をすればいい。
本当に、面白い時代が来た。
年寄りになっていくというのは、面白いことかもしれない。
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