■自分を何で支えるか?
「自分を何で支えるか?」
こう問われたら、どう答えるだろうか?
しばし、この問いについて考えていただきたい。
ぼーっとでもいいから、しばし立ち止まり、
一呼吸してから、続きの文章を読みましょう。
・・・・・・・・・・
本当ならば、この問いを胸に1週間くらい考えるべきのものだ。
実は、モンゴルのセミナーでは、この問いを丸一日考えるという事をやってもらった。
もちろん、この問いに答えはない。
明確な答えが出せるような問いではないのだから当たり前だ。
亀井勝一郎は「答えとはインチキなのです」と言った。
また、「理解は犠牲を要求します」とも言った。
だから、犠牲を払わないで、答えだけを得ようとする態度は あり得ないし、「ぼーっとでもいいから、しばし立ち止まる」なんて態度も本当はあってはならない。
大変申し訳ない・・・・・。そんなことを要求した私が悪いのだ。
しかし、この質問を質問と解さず、 肝に銘じておく言葉と考えたらどうだろう?
これは、なかなかの言葉ではないだろうか。
そもそも私たちは、どうして、それぞれに「私」なのだろうか?
それには、私を私ならしめた何かがあるはずだ。
自己は、ただ自己の力によってのみ、自己となるのではない。
何かが、私を私ならしめたのである。
そして、これからも何かが、私を私にあらしめるのである。
したがって、 「私は○○をする!!」というレベルの意思も大事だが、 それ以上に「自分を何で支えるか?」を考える方が大事だと思う。
そもそも、選択には必ずメリットとデメリットがある。
もう少しはっきり言えば、 苦しみなしで快適だけを求めることはできない。
ところが、一般に「私は○○をする!!」という意思には、 苦しみの考慮が少なくなりがちだ。
逆に「自分を何で支えるか?」には、その考慮がある。
・・というか、その考慮がなくては成り立たない。
だから、誰もがこの問いを前に一度立ち止まることになる。
「自分を何で支えるか?」には覚悟がいるのだ。
ただし、立ち止まるのにはもう一つの理由があると思う。
それはこの問いに対して、 唯一無二のナニカを考えようとすることにある。
「自分を何で支えるか?」の“何”は、一つである必要はない。
それどころか、複数の方がいいに決まっている。
ところが多くの人は、唯一無二のナニカを求めてしまう。
私は、人間の苦しみ、不安の原因の一つはここにあると思う。
人間は、いい加減で、ずる賢くて、図々しくて、 世知辛くていいのである。
・・というか、坊主ではないのだから、そっちの方がいいのだ。
問題は、図々しくできない現状にこそある。
こんな書き方をしてきたけれど、覚悟だとか、唯一無二のナニカの 前に、何も浮かばなくて立ち止まってしまう人の方が多いのだ。
だから、「複数出していいよ!」なんて言われても困ってしまうはずだ。
でも今まで、「私を私ならしめた何か」は唯一無二ではなく、 いろんなものが絡んでいたはずなんだから、 やっぱりこれからもそうなのである。
つまり、「自分を何で支えるか?」などという問いを前にすると、 私たちは身構えてしまいがちだが、そんな身構えた態度の向こうに 答えはない。
まずは今、「私を私ならしめているいろんなもの(something)」を確認してみればいいのである。
それらは偶然出会ったものばかりだけれど、 今となっては一つも削除不能なモノゴトのはずだ。
ここで重要なことは、すべてが偶然であるというところ。
だから、「自分を何で支えるか?」には、 覚悟がいると書いたけれど、実際には成り行きである。
しかし、覚悟がなければ、成り行きもない。
若いときには、成り行きだけできたように見えたことにも、 覚悟が必ず絡んでいたはずだ。
結局、いろいろ訳のわからない思考過程を書いてきたけれど、 重要なのは“覚悟”だ。それだけと言ってもいい。
そして、その覚悟について考えた時、あることに気づく。
覚悟って、何種類くらいあるんだっけ?
おそらく種類なんてない。
ここでひとつの言葉が浮かぶ。
『Risking Being Alive』
ここで、なるほどな~と思う。
「傷つくかもしれないけど、挑戦する能力」
これだけが支えなのだ・・・・・。
当然だが、年齢なんてまったく関係ない。
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