■無益なエクササイズ
ウィリアム・ジェームズが『無益なエクササイズ』と呼んだ 良き習慣の持ち方については、何度もネタにしてきたように思う。
過去には、映像を使った半日のセミナーで、 この『無益なエクササイズ』をテーマにしたこともある(ちなみに、この時使ったメインの映像は、ブレッソンの『抵抗』だった)。
そこで、次のような質問をよくもらう。
- 『無益なエクササイズ』とは、どういうものですか?
- 『無益なエクササイズ』はどんな風にやればいいですか?
とても欲のかたまった質問なので笑ってしまうが、 仕方がないだろう。
ただし、こっちだって、『無益なエクササイズ』の先には、 途方もない効用があることを示唆しながら話しているのだ。
質問をする人の欲よりも、私の操作的なところの方が問題だと思う。
しかし、こっちの方が悪いとは思うけれど、ひとこと言いたい。
センスが悪い。
『無益なエクササイズ』と表現されたものを知りたくて、 上記のような質問をするのはどうなのか?
どう考えても『無益なエクササイズ』という言い方には、 ニヤリとしたくなるような仕掛けがある。
おそらく、ジェームズは笑っていることだろう。
そして、こう言っているはずだ。
「一回さぁー、欲っていうのを忘れてみようよ!」
どうだろうか?
こんなことくらい予想がつくというものだろう。
ところが、その雰囲気の中で、
- 『無益なエクササイズ』とは、どういうものですか?
- 『無益なエクササイズ』はどんな風にやればいいですか?
である。
これは、ちょっとできない・・・。
そういう質問ではないだろうか?
そこで考えてみよう。
無欲ということについてである。
私たちは、どんな時に無欲だろうか?
私たちは人間だから、基本的に無欲なときはない。
欲の塊である。
シンプルな夫婦生活の中でも、あるのは欲の激突。
どちらも“私の思い通りのあなた”を求めているので、 ちょっとした会話から喧嘩になる。
夫婦とは、欲VS欲なのだ。
しかし、思いやりというものがないわけではない。
愛し合って一緒になったのだから当然だ。
ところが、思いやりには条件がつく。
“私の思い通りのあなた”という条件だ。
この条件がないと、思いやり・・というのは稼働しない。
うまくやるには、逆にすればいい。
冷静になれば簡単なことである。
まずは、思いやりを持つ。
そうすれば、おそらく“私の思い通りのあなた”になる。
それは、若い時に実行してきたことである。
では、若い時に実行できて、 今、実行できないのはどうしてだろうか?
照れるから・・なんて理由もあるだろうけど、多くの場合は違う。
信じられないのだ。
思いやりを持ち続けた先にあるものを、信じられないのだ。
そして、若い時はそれを信じることができた。
では、どうして信じられなくなったのか?
それも簡単だ。
裏切られたことがあるのだ。
それも一度ではなく、何度も。
それも、覚えていないくらい小さく・・・・。
だから、ぶっちゃけ、やることは一つ。
信じ切ればいい。
信じ切るというのは、とても大きな欲で、そして無欲なのだ(笑)。
練習の世界では、練習量が問われることが多いが、 実は、練習量はあまり意味がない。
間違った練習をたくさんしたらダメだということに気付けば、 すぐにわかる話である。
必要なのは、当然、練習の質だ。
内容が問われるのである。
しかし、内容は難しいものであってはいけない。
なるべく簡単なことがいい。
それも、自分の実力にあったちょうどよい練習である。
やっていて、これで本当に成果があるのか?と疑いたくなるような 質の練習が最も効果的だ。
しかし、そこに大きな壁がある。
そういう質の練習を信じ切ってやれる人は少ない。
錦織圭も相当苦労したと聞いている。
練習の世界で、上達を目指すなら、 単純な練習を信じ切ってやることが一番効果的なのだ。
くどいけど、もう一度確認しておこう。
無欲とは、信じ切ることである。
無欲とは、小さくやることである。
|