2016年5月10日 第559号

目 次
  1. TAROの独り言
  2. コブラツイストは、ツボに効く
    ・・・わかってるよ
  3. まーけ塾レポート
    ・・・7. 大感染
  4. Q&A
    ・・・「欲」と「業」
  5. しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
    ・・・『井上ひさし』 
  6. 砂漠の中から本を探す
    ・・・『人間にとって寿命とはなにか』
  7. 構造で映画を見る。時々、いいかげんに映画を見る。
    ・・・『グランドフィナーレ』
  8. TAROの迷い言
2. コブラツイストは、ツボに効く

わかってるよ

我が家では、「わかってるよ」という言葉は禁止されている。
しかし、大人の私は子ども相手だと「わかってるよ!」と
つい言ってしまって注意を受けたりしている。

禅には、「わかる」ことについて2つの言葉がある。

「漸悟(ぜんご)」と「頓悟(とんご)」

「漸悟」は、少しずつ悟る。
「頓悟」は、一気に悟る。

禅は、「漸悟」を認めないわけではないらしいが、
「頓悟」をもって悟りとしている。
「わかる」は、一気しかないのだ。

しかし、この“一気”が難しい。
“一気”とは、次元転換である。

数学(?)の式の中には、次のようなものがあるらしい。

【数学(?)の式「わかる」の図】

(図)

検索してみようがないので、
裏は取れていないが理系の人が言うのだからそうなのだろう。
この図を見た時、数学は素敵だと思った。
こんな人間臭いことまで式になっている。
そして、この式がなくては、
数式の表現ができないというのだからたまらない。

しかし、数学の式さえ使っている概念を理解している一般人は
少ない。
そして、みんな「わかっているつもり」になっている。

人から何かを指摘される。
それは、何かが足りないからであって、
足りていれば指摘はされない。
しかし、人の指摘に対してする反応の多くは「わかってるよ」。

「わかってるなら、やれよ!」と言うのは、
人間関係が壊れる場合を含め余程な時じゃないと使えないので、
「わかってるよ」は、いつまでも「わかってるよ」のままで、
人は痛い思いをするようにできている。

そこで、我が家では「わかってるよ」と言われそうなことは指摘を
しない。
「わかってるよ」は禁句だが、それ以前に、
そういう言葉はあまり飛び交わない工夫がされている。

だって、どうせ痛い思いをすれば「わかる」のだから、
言う必要はないのだ(命を失うようなことは別ですが・・・)。

そこで、我が家の子どもはこう言う。
「なんで、事前に教えてくれなかったんだよー」

私はそれに対して応える。
「いいじゃん、わかったんだもん・・・」

「わかる」というのは、危険なことであり、冒険なのだ。

そして、危険だから、人はわかりたくないのである。
好奇心旺盛・・・だとかなんとか言っていても、
都合の良いこと以外は知りたくなんてないのである。

では、こんな「わかりたくない私」はどうしたらいいのだろうか?

これが、毎度のことだが、簡単なのである。

「わかったつもり」になればいい。

決して、「わかった」と思わない。
これを我が憲法にする。

しかし、「わかった」感じがしちゃう時はある。
だからその場合は、
「あー、オレ、“わかったつもり”になったー」と認識するのである。

「わかったつもり」という自己認識は強力だ。
この認識により、私たちの細胞は、
「わかった」を求めて強烈に稼働する。

人は、「わかったつもり」を認識すると居ても立ってもいられなく
なるものなのだ。
だから、次元転換も起こりやすくなるのである。

もう一つは、目の前に偉そうに「わかった」奴がいて、
そいつの言っていることが自分の「わかった」と一致していたら、
その「わかった」を疑い、「わかったつもり」に変換することだ。

「わかった」奴の言うことは、間違っていることが多いので、
「わかった」奴を他山の石にして、こっちの知識を更新しようと言うわけである。

さらに、自分が「わかった」ように話をはじめている時も同様で、
心の中で「わかったつもり」に転換すると、話しながら自分の言っていることに疑問が出てきて、同様に知識更新に便利である。

ところで、私は毎週思っていることがある。
こんな、何にもわかっていない奴が文章を書いているのも驚きだが、それを毎週読んでいただいていることに、
ある種の切なさを感じている。

しかし、同時に思うのである。
これは、お互いの更新のためにある。
そのためには、誰かが石を投げる必要があって、
私が現在は石を投げる役なのだと・・・・・。

そして、この文章を通した関係性とは、
お互いの更新の競争(闘争)なのだと思っている。

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