■ 予言的な人の予言的な所以
山口小夜子の遺品の中に、子供時代のスクラップ・ブックがあった・・
(『氷の花火 山口小夜子』の一場面)
昨年封切られたドキュメンタリー『氷の花火 山口小夜子』は、 素晴らしい映画だった。
私は興奮して妻と娘二人に「見ろ!」とメールした。
特に、女の人に見てもらいたい・・と思ったようで、 その他にも女性に会えば「見ろ、見ろ」と押し売りをしていた。
押し売りだけではない。
私の発言にもこの映画の引用は一時期目立って増えた。
学びが多すぎて自分の反応は過剰になった。
この映画の中で、過剰なスイッチが入った私が一番反応したのが、 山口小夜子の遺品の中にあった子供時代のスクラップ・ブックだ。
このスクラップ・ブックの場面で、私は思った。
「彼女が集めたファッション誌の切り抜きには、彼女の未来が予言されている」
人は、その存在そのものが予言的なのだ。
このことについては、過去に、このメルマに書いた。
2013年8月20日配信の第413号『どうして、こんなに予言的?』の 中でも違うエピソードなどを盛り込んで言及した。。
その文章の中に、私が過去に書いた自分のメモを発見したエピソードが書かれている。
そこには、1~37の連番が付けられ、 私が願望することが何の根拠もない身勝手さで書かれていた。
仕事の内容や年収、貯金、欲しいもの、行動などが、 何の秩序もなく並んでいた。
私は、この約20年前に書いたメモを見て驚いた。
ほぼすべてが実現していたのだ。
それも、メモに書かれたよりも実現の質が高いものだった。
山口小夜子のスクラップ・ブックも同様。
そこには、将来のパリで活躍する彼女がいた。
紙に書いたことが実現するという主張がある。
しかし、その主張には無理がある。
順序は逆で、実現するから紙に書いたのだ・・・・・ と私は思っている。
私たちは、いつでも、そして、全身で、予言的だ。
ところで、『氷の花火 山口小夜子』のパンフレットには、 いとうせいこうの原稿が掲載されている。
その原稿には、山口小夜子が突然連絡をしてきて、 彼を呼び出したことが書かれてある。
彼が当時数回行っていた試行錯誤について、 彼女が話を聞きたいと言うのだ。
私は山口小夜子という人のアンテナがどんな微弱な電波も逃さずとらえることに驚いたし、まだ形になっていない試みに対してこの上ない深い敬意を抱いてくれていることに逆に頭が下がった。
丁寧な言葉使いであった。
丁寧に熱意をもって私に質問する小夜子さんは貪欲というのでもなかった。
透明な好奇心といえばいいだろうか。
その時に実際、小夜子さんが何を言ったかまったく覚えていない。ひたすら何かを求めて開かれている目が美しかった。
「透明な好奇心」
私たちが忘れてしまった心ではないだろうか?
私は、某女性経済評論家(?)が自転車の効用を語っている文章を 見て激怒したことがある。
効用を全面に出して自転車の良さを語っている者には、 「透明な好奇心」などない。
こうした価値評価を有用な機能にのみ求める現代社会の道具的傾向をハイデガーは「世界の暗黒化」と言った。
山口小夜子のスクラップ・ブックは、 「透明な好奇心」に溢れていた。
恥ずかしながら、私のメモは現世利益バリバリではあったが、 それでもその奥にあるのは「透明な好奇心」だったと思う。
やりたいことだらけだったのだ・・・・・。
いとうせいこうの言葉をさらに引用したい。
・・・・・・・
自分にもまるでわからない未来に向けてポジティブな視線を向け続ける。
決まりきった表現を超えて、向こうに何かがあると信じる。
その山口小夜子を表現するなら、「少女」と言う他ない。
私は今、生まれて初めて女性を少女と呼んで称賛した。これからもないだろう。・・・
成就するのは、いつでも「少年」と「少女」だ。
そして、成就しないのは、 「少年」と「少女」を忘れてしまうからだ。
道具的価値ばかりに目が向くことで、 私たちは「少年」と「少女」を失う。
私たちは、いつでも、そして、全身で、予言的だ。
しかし、だれもが予言的なのではない。
「少年」と「少女」による眼差しだけが予言的なのだ。
世の中の多くは、悲劇だ。
悲劇は、「少年」と「少女」を忘れ、 道具的価値ばかりに目を奪われるからやってくる。
悲劇があるのではない。
「少年」と「少女」がいなくなってしまうだけなのだ。
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