■ 自由の刑
人間は自由の刑に処せられている
(ジャン=ポール・サルトル)
1945年10月。
第二次世界大戦が終了して半年しか経っていない時期に、 サルトルは講演でこう語った。
しかし、この言葉は、当時よりも今のほうが意味深い言葉となったかもしれない。
1945年当時、サルトルのこの言葉には解説が必要だったが、 今はまったく必要がないはずである。
私たちは、今、正に「自由の刑に処せられている」。
先般も、あるサラリーマンから質問された。
「自分のやりたいことを見つける方法を教えてほしい」
私のような人間に、この質問はタブーである。
そして、お付き合いの長い方々はそれを十分知っているので、 こんなことを質問することはない。
そのため、私は少し考えてしまった。
「それなりに社会経験もある人が、なぜにこういう質問を発してしまうのか?」
そこがとても興味深くもあった。
質問者は、純粋である。なんの打算もない。
ただただ、無防備なのだ。
では、何に無防備なのだろうか?
もちろん、自分の人生にである。
自分の人生に対して、とことん無防備なのだ。
人生というのは、メンテナンスを繰り返さないと落ちていく。
運動をしないと体力が衰えるように、 人生も意図的に生きないとどんどん衰えていく。
しかし、私たちは何をしようと自由である。
体育の授業や部活がなければ運動なんてすぐにやめてしまうし、 受験がなければ勉強なんてしないだろう。
選択は自由だが、選択の自由を与えられると、多くの人は堕落する。
・・・・・・・・
とても当たり前のことを言っているように聞こえると思うが、 1945年当時の人たちには、このことがわからなかったのだと 思う。
すでに、1789年に起きたフランスの大きな実験で、 このことは証明されていたけれど、革命の反動化はあくまでも 別の文脈で語られていった。
また、フランスの学生は、この後ド・ゴールを相手に、 さらなる自由獲得に向かっていく。
サルトルの言葉は、予言だったのだ。
そして、20世紀後半から現象として表出。
今、多くの人が「自由の刑に処せられている」。
それも、自分の自由にだけ処せられているのではなく、 他者の自由にも処せられている。
この原稿を書いている日の朝、テレビでは、モンスターペアレントの生育が第二期に入り、モンスターペアレントの子どもたちがスクスクとモンスターペアレントとして育ち、学校の問題解決はさらに難しくなっていると報じていた。
すでに、 「自由の刑に処せられている」人類の第ニ世代が育っている。
最早、この流れは止めることは不可能で、私たちは益々 「自由の刑に処せられ」ることになる。
そして、他者を責めることには敏感ながら、自分を責めることには 鈍感な勇者がこれからも多数輩出されることになるだろう。
自分を責めないで、リスクも負わないで、 「自分のやりたいこと」なんていつになっても探索不能だから、 永遠に質問は続くことだろう。
自分のやりたいことを見つける方法を教えてほしい・・・・・・・
そして、2016年には、 次のことが断言できるようになってしまった。
「思考は実現する」は嘘である。
「大好きなことをして自由に生きる」なんて戯言である。
もちろん、これらの言説は、元々は嘘ではなかった。
かなり問題のある言いっぷりだが、ある面では真実だった。
しかし、この言葉が発せられた時、それは嘘になった。
最早、前提がなくなっていたからだ。
私たちは、完全には自由ではない。
この前提があるから、サルトル達が唱える実存主義が成り立つ。
私たちは、人生の呪縛、理不尽を乗り越え、企てを世界に投げつける必要がある。
ただし、企てを投げつけた者には、自分の行うこと一切について 責任を負う義務がある。
企てを投げつけた瞬間、私たちは自由を奪われるのだ。
思考は実現・・・とか、大好きなこと・・・の発想(思想でもなければ、哲学でもない)には、「能力」という問題が抜け落ちているのだ。
「能力」とは、私たちは完全に自由ではないということを引き受けることである。
そして、この引き受けができる者の目の前にだけ「上達」がある。
「上達」は自分の力で獲得した「自由」であり、「不自由」だ。
私たちは、自由の刑から逃れることは一生できないが、 「自由の刑」の性質を変換することだけは可能だ。
多くの有名スポーツ選手は、その世界で生きている。
そして、私たちも同じように生きるしかない。
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