2016年8月30日 第575号【第5週目 増刊号】  

1. TAROくんの独り言拡大版

■ ナマモノ

今年は、デヴィッド・ボウイの死をはじめに、
好きなミュージシャンが次々と鬼籍に入っています。

50年代にはじまった「若者のための音楽」の担い手が70歳以上になったこと、そして、エンターテイメントがグローバル産業になったことが大きな要因なのだと思います。

エンターテイメントのグローバル化以前の時代には、
私たちは近所の人の死だけを気にしていました。
もちろん、江戸時代以前にもエンタメはあったでしょうから、
当時の有名人の死や政治家、天皇などの死は、庶民の間でも
共有化されたとは思います。
しかし、今の時代は、当時とは比べものにならない規模で、
他者の人生の終わりについて共有化するようになっています。

そして、デヴィッド・ボウイのように死さえも演出して(=他者の目を意識して)去っていく者まで現れています。

私は、晩年の立川談志を追いかけていました。
彼が死ぬ8年前に、「彼の死にざまを追いかけよう・・」と決め、
彼がどのように芸に殉じていくかを見届けようと思いました。
喉の手術の後くらいから、彼の高座は「体調が悪い」というグチで
はじまるようになっていましたが、それでも落語がはじまると別人でした。マクラでは小さな声しか出ないのですが、落語になると十分な声量に変わるのです。
そして、最晩年の落語にも名演が数多くありました。

しかし、2007年12月『よみうりホール』での伝説の「芝浜」の後、彼は急激に衰えていきました。それ以前にも、体調不良による弟子の代演などはありましたが、この頃を境に毎回通い詰めるファンの間では、最後の日は近いという思いはあったと感じています。

いつの頃からでしょうか?
「他者の生と死から学ぶ」ということに私は意識的になっていました。

そして、今では、そのことがグローバルな規模で可能です。
もちろん、談志を追いかけるレベルのことは、
グローバルではできません。
しかし、談志レベルではないにしても「学びの観察」は可能です。

子供の頃、伝記が大好きでした。
特に、マゼランには電撃が走るほどの興味を持ったことを、
今でも覚えています。
しかし、伝記はしょせんお話です。
いくらでも話を盛ることができます。

たまたま、今朝見た雑誌に
「織田信長は偉ぶらず、もてなし上手なクリエイター」という文字が躍っていましたが、そんなことは誰にもわからないことです。
勝手に予測をするのはいいと思いますが、
実は誰も本当のところはわかりません。

また、司馬遼太郎は大好きですが、彼が打ち込んでしまった歴史上の人物のイメージを、私たちはなかなか捨てることができません。
ある面、弊害なわけです。

伝記も歴史も面白いですし、それはそれで参考になりますが、
ナマの生きざまはもっと面白い。
そして、それがグローバル化の一番の恩恵のように思います。

グローバル化で、
何もかもが見えるようになったわけではありません。
私たちが見ることが可能なのは、
二次情報や三次情報がほとんどです。
しかし、それでも生きている人の話は伝記とは違った性質を
醸しだしてくれています。

私は、ボブ・ディランがグレイトフル・デッドとライブをやることになった時、グレイトフル・デッドの音楽に対する取り組みにショックを受けて、彼が意気消沈して街を徘徊した話が好きです。
その時、彼はある店で奏でられていたピアノの音と出会い、
原点回帰をするのですが、このエピソードの結果を、
私たちはその後の彼のパフォーマンスで確認することができます。
2010年の来日で彼が行ったライブハウス・ツアーは、
20年前の原点回帰の精神が彼の中で生きているのを確認できるものでした。
彼自身はそのエピソードさえ忘れていると思われますが、
彼の一挙手一投足にそれを確認することができます。

もちろん、それは私の推測でしかありませんが、
「織田信長は偉ぶらず、もてなし上手なクリエイター」
と言ってしまう希薄さとは違う次元の“実感”が伴うものです。

世の中、人より面白いものはありません。
ナマモノの人が、世界に溢れている。
そして、その気になれば、いろいろな人の生きざまをライブで
キャッチすることができる。そういう時代に私たちは生きています。

犬が犬を観察する。
猫が猫を観察する。
鶏が鶏を観察する。      ・・・しつこいですね。

動物も同種を観察することはあるかもしれませんが、
「人間が人間を観察する」というのとは、
そもそもがまったく違うものです。
私たちは、唯一同種を観察できる存在です。
そして、そこから多くを学べる種です。

しかし、そういう種でありながら、同種からの学びを放棄している者の方が圧倒的に多いのも事実でしょう。

私は意識化できることを、意識する・・・というところに
人間の生きていく王道があるといつも思っています。
この話をする時にいつも出す代表例といえば、“呼吸”です。

私たちは、自分が生きるためのほとんどの行動に介入ができません。
鼓動や消化などをつかさどる器官のコントロールは逆立ちをしても
できません。
そして、“呼吸”もそうした器官の営みの一つです。
しかし、どういうわけか、“呼吸”はその気になればコントロールが
できるのです。
そして、この“呼吸”のコントロールは、生きていくうえでの重要な
要素です(詳しくは、いつかどこかで・・)。

そして、「人の観察」もその一つとして加えていいと思うのです。

神は、「人を観察する」ことを意識する余地を、
“呼吸”同様に私たちに残してくれたのです。

そういう私たちの前にあるのが、グローバル化です。
おかげで、大量の知見がそこらじゅうに落ちています。

世の中のくだらぬ情報などすべて消し去って、
それだけ残しておけばいい。
そう思うほどのものが、大量にある。

すごいことだと思います。

目次に戻る
このページを閉じる