■ ケムール人
そう人はひとりじゃ生きれない
そんな当たり前の事とか
そう愛だってなきゃ生きれない
今更身に染みてる
『INSPIRE』浜崎あゆみ
まったく聞いたこともない曲の詞を引用するのは無責任な感じだが、私の頭の中では、それなりのメロディーが鳴っている。
「そう」から「人は・・」に行くとき、 4度くらい飛んでいるんだろうな~などと想像しつつ、 んーーー、そういうメロディに、こういう詞かよーと思ったりする。 (本当に、4度ずつ動いていくかは未確認です)
でぇ、「こういう詞かよー」なのだが、 「今更身に染みてる」というところに反応。
私も、違う意味で身に染みている。
それについては、2月23日のブログの一部を引用したい。 (全部は、こちらをどうぞ)
「東京の生活のようなもの」の周辺を見てみると、 いろいろな分野のサポーターが自分の周りに集まってきていることに気づく。
そして、 そうしたサポーター込みで自分の人生になっているのだ。
晩年・・と表現したらいいのか、ちょっと違う感じもするが、壮年というのもニュアンスが違うので、ここでは晩年として おくけれど、晩年というのはこういうことなのだな・・と 思う。
ガムシャラに働いてきてみたら、次のガムシャラ君たちが私をサポートしてくれていて、私はケムール人のように彼らの人生の一部を吸収して、自分の人生を作り上げている・・ってことになっていた。
なるほどー。
自分も若い頃から、 人の人生の一部になっていたのかもしれない。
そして、今もそうなのかもしれない。
『ウルトラQ』のケムール人の回のラストは、 当時、幼稚園児だった私に衝撃を与えたが、 今は、「あーそういうことなんだ・・」 という気分を与えてくれたりする・・。
あの消えたおじさんは元気なのだ、きっと。
若いころには、生意気にも、それこそ自分一人で生きてるくらいの 勢いでやってきた。
もちろん、そうではないことは承知していた。
スタッフのサポートがなければ、やれないことだらけ。
家庭があり、妻のサポートがあるということは何にも代えがたい。
それは承知のうえで、それでも生意気な気持ちで生きてきた。
しかし、50歳になる頃、オカモトという人物が「私」だけでは まったく成立し得ないことを感じはじめた。
その気分は時とともに強まり、今に至っている。
そして、その気分をブログに書いた。
私はケムール人のような者で、 多くの他者を吸収して今存在している。
「人はひとりじゃ生きれない」どころではない。
そんなひとりがどうとかこうとかではなく、 そもそもの成立が他者を“構成要素”としているのだ。
ブログでは、“次のガムシャラ君”と表現したが、若者のサポートだけではない。人生の先輩、同輩のサポートも当然にあり、特に経験豊かな人たちのサポートは心強い。
死なれては困るくらいである。
資本主義が到達した一つの現象がここにある。
いわゆる専門化が進んだことで、私たちは豊かな生活が可能に なった。
あらゆる日常生活を全部自分でやっていたら大変なわけで、 それを分業することで今の生活を得た。
自分で石油を掘るところからはじめていたら、 油田発見前に命は尽きる。
分業は、私たちに化石燃料の利用を可能にさせ、電化製品やあらゆるコンテンツを流通させ、さまざまな交通機関も提供してくれた。
そして、分業の成果は、それぞれの分業が高度専門化すると同時に、大衆化が起きたことで、電化製品などの大衆消費財やコモディティの提供にとどまらず、技術向上、健康、改善・・・などの分野まで 広がっていった。
一例を挙げれば、パーソナル・トレーニングがいい例だろう。
数十年前ならば、一部のプロがコーチなどから受けていた特別な メニューを今では誰もが受けることができる。
もちろん、トレーナーのすべてが良質なサービスを提供できているとは思えないが、時間とお金をかければ、私たちにはサービスを受けられる余地はある。
私は、パーソナル・トレーニングを受けて約4年になるが、明らかに身体の動きは改善している。可動域は広がり、左右の機能差もかなりなくなってきている。
そして、今では一カ月に数回受けるトレーニングなしでは、 私の人生は成り立たなくなっていると感じている。
朝6時半のSkypeによる英語レッスンからはじまり、私の人生は、 こうしたサポーターによる教育やメンテナンスで成立している。
そして、人生の豊かさとは、誰にサポートしてもらうかにあると 冗談抜きで思っている。
同時に、私もサポーターを仕事としている。
世の中は、サポートの連鎖だ。
そして、その連鎖の質が人生の豊かさを決めている。
これがもう少しで55歳になろうとしている男の大発見である。
大発見は大げさに聞こえるかもしれないが、私はそれほどの衝撃を 今の景色に感じている。そして、今更身に染みている。
最近は、葬式もカンタンになってきているという。
最後に引き取り手のいない遺骨もあるという。
以前にも書いたが、葬式は黒字になる。
参列者の弔慰金は葬式費用を上回るのが普通だ。
こうした儀式で、それぞれがお金を持ち寄る。
そして、その共同作業を順番に繰り返す。そういう仕組みだ。
一種の保険、ないしは頼母子講のようなものである。
しかし、その仕組みにあやかるには、人間関係が必要だ。
葬式とパーソナル・トレーニングのようなものを同じ土俵に上げるのはおかしいと思う方がいるかと思うが、私は大きな目で見れば同じだと思う。
要は、そのサポート・システムを利用できる立場にあるかないかだけだと思う。
今更身に染みちゃわないように、このことはしっかり念頭に置いて おくべきだ。
そして、そのためには、それなりのお金が必要で、 ここが私たちが資本主義の下で生活しているという冷徹だけど、 すてきな現実なのだ。
|