■成熟
いつの頃からか、私は、“成熟”という言葉に疑いを持つようになっていました。
もちろん、野菜や果物、動物には“成熟”はあると思っています。
しかし、人にはそんなものはないと思うのです。
ですから、目の前に80歳代の老人がいても、今の私の目には、 子供が老けた・・としか見えません。
だいたい、私自身がそうなのに、自分を棚に上げて、 年を取った他人様を見ると、反射的に“成熟”して見えてしまうことの方がおかしいのです。
だから私は、小林秀雄の有名な言葉、
「女は俺の成熟する場所だった」
を信じません。
むしろ、意味は逆だと思っています。
「女は俺の未成熟全開の場所だった」
が正しいと思います。
世界は、ただ、たくさんの子供がいるだけ。
この理解は、対人関係に限らず、外部世界のさまざまな出来事の対処に有益です(別に、効用を目的に、そう考えるようになったわけじゃありませんけど・・・)。
そして、私はそれなりに、この理解に満足して日常を過ごしていました。
ところが、次の一文に出会ってしまったのです。
私の尊敬する畏友中井久夫さんに、
「成熟とは、いかなることか?」
と、尋ねたところ、彼は、確か、次のように答えてくれたと思う。
「・・・退行の泉に不安なしに浴(ゆあみ)してまるごと戻って来られる能力」と。
(山中康裕)
んんんん・・・・・・・。これは、かなり唸ります。
「“成熟”という言葉を否定するおまえは、単に、“退行”というお風呂に入り、満足したまま戻ってきていないだけだ!」
と言われてしまった・・・ゼロというわけです。
これって、すごくありません?
立川談志が、古今亭志ん朝に
「兄さんは、普通の噺が出来ねえだけなんじゃないですかい?」
って言われた時の気分って、こんなかなー?と思ったりしています(笑)。
では、どこに戻ればいいのでしょうか?
私は幼いまま大人になり、そして、年を取りました。
おそらく、多くの人がそうです。
だって、私は「“成熟”は幻想だ!」ということを発見してから、 一度も、この例外の人に出会っていないのです。
しかし、それでも山中さんが紹介してくれた中井さんの言葉を 否定できないのです。
この言葉には、不備があります。戻る場所が書かれていない。
でも、私は、どこかに戻る場所があると感じている。
それはなぜでしょうか?
それは、簡単ですね。
確かに、私はソコに戻ったことがあるのです。
それも、何回も・・・・・・・・。
もう少し言えば、いつでも戻れる自信のようなものがある。
つまり、「退行の泉に不安なしに浴(ゆあみ)して、まるごと戻って来られる能力」に同意なのです。
中井さんの言葉は、それを思い出させてくれたのです。
ただし、普段の私は、お風呂に入りっぱなしです。
甘えきっているのです。
あらゆるものに甘えきっているのです。
ですから、
「“成熟”という言葉を否定するおまえは、単に、”退行”というお風呂に入り、満足したまま戻ってきていないだけだ!」
と言われれば、ドキッとしてしまいます。
私は、立川志らくの『死神』のサゲが大嫌いです。
あれは、ない・・・と思います。
生前の立川談志が、どんなに「面白い!」と誉めようと、 アレはダメです。
立川談志のサゲは、変化球ではありません。
私は、最後まで彼が笑わないサゲが好きです。
しかし、ラストにフッと笑うサゲも嫌いではありません。
あの瞬間、彼は戻ってきているからです。
談志は、志ん朝が言うような 「普通の噺ができないような人」ではありません。
それは、志らくも同様です。
決めるときは、決めるのです。
そして、それがいつでもできるから遊んでいるのです。
しかし、戻れないならば、それはただのゲテモノです。
ですから、私は、ちゃんとした志らくの『死神』を見たいと、 いつも思っています。
結局、私はどこかで志らくを信用しているのです。
そして、自分のこともどこかで信用しています。
それがどうしてなのか、 それをどこで身に付けたのかは分かりません。
でも、勝負のときには、勝負できる妙な自信はある。
コレも事実なのです。
だから、私は幼くていいのです。
そして、みんなも幼くていいのです。
戻る力がどれだけあるかは、わかりません。
よほどのことがない限り、 それを人に見せる必要なんてないからです。
“成熟”は幻想ではありませんでした。
むしろ、それは人の本質です。
でも、みんな普段見せることはない。
だから、分かる手段もない。
幼く振る舞う老人を前に、 それを見破れるようになったら素敵ですね。
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