2017年5月30日 第616号【第5週目 増刊号】  

1. TAROくんの独り言拡大版

■成熟

いつの頃からか、私は、“成熟”という言葉に疑いを持つようになっていました。
もちろん、野菜や果物、動物には“成熟”はあると思っています。
しかし、人にはそんなものはないと思うのです。

ですから、目の前に80歳代の老人がいても、今の私の目には、
子供が老けた・・としか見えません。
だいたい、私自身がそうなのに、自分を棚に上げて、
年を取った他人様を見ると、反射的に“成熟”して見えてしまうことの方がおかしいのです。

だから私は、小林秀雄の有名な言葉、
「女は俺の成熟する場所だった」
を信じません。

むしろ、意味は逆だと思っています。
「女は俺の未成熟全開の場所だった」
が正しいと思います。

世界は、ただ、たくさんの子供がいるだけ。
この理解は、対人関係に限らず、外部世界のさまざまな出来事の対処に有益です(別に、効用を目的に、そう考えるようになったわけじゃありませんけど・・・)。
そして、私はそれなりに、この理解に満足して日常を過ごしていました。

ところが、次の一文に出会ってしまったのです。

私の尊敬する畏友中井久夫さんに、
「成熟とは、いかなることか?」
と、尋ねたところ、彼は、確か、次のように答えてくれたと思う。
「・・・退行の泉に不安なしに浴(ゆあみ)してまるごと戻って来られる能力」と。

(山中康裕)

んんんん・・・・・・・。これは、かなり唸ります。

「“成熟”という言葉を否定するおまえは、単に、“退行”というお風呂に入り、満足したまま戻ってきていないだけだ!」
と言われてしまった・・・ゼロというわけです。

これって、すごくありません?

立川談志が、古今亭志ん朝に
「兄さんは、普通の噺が出来ねえだけなんじゃないですかい?」
って言われた時の気分って、こんなかなー?と思ったりしています(笑)。

では、どこに戻ればいいのでしょうか?

私は幼いまま大人になり、そして、年を取りました。
おそらく、多くの人がそうです。
だって、私は「“成熟”は幻想だ!」ということを発見してから、
一度も、この例外の人に出会っていないのです。

しかし、それでも山中さんが紹介してくれた中井さんの言葉を
否定できないのです。

この言葉には、不備があります。戻る場所が書かれていない。
でも、私は、どこかに戻る場所があると感じている。

それはなぜでしょうか?

それは、簡単ですね。
確かに、私はソコに戻ったことがあるのです。
それも、何回も・・・・・・・・。

もう少し言えば、いつでも戻れる自信のようなものがある。
つまり、「退行の泉に不安なしに浴(ゆあみ)して、まるごと戻って来られる能力」に同意なのです。
中井さんの言葉は、それを思い出させてくれたのです。

ただし、普段の私は、お風呂に入りっぱなしです。
甘えきっているのです。
あらゆるものに甘えきっているのです。
ですから、
「“成熟”という言葉を否定するおまえは、単に、”退行”というお風呂に入り、満足したまま戻ってきていないだけだ!」
と言われれば、ドキッとしてしまいます。

私は、立川志らくの『死神』のサゲが大嫌いです。
あれは、ない・・・と思います。
生前の立川談志が、どんなに「面白い!」と誉めようと、
アレはダメです。
立川談志のサゲは、変化球ではありません。
私は、最後まで彼が笑わないサゲが好きです。
しかし、ラストにフッと笑うサゲも嫌いではありません。
あの瞬間、彼は戻ってきているからです。

談志は、志ん朝が言うような
「普通の噺ができないような人」ではありません。
それは、志らくも同様です。
決めるときは、決めるのです。
そして、それがいつでもできるから遊んでいるのです。

しかし、戻れないならば、それはただのゲテモノです。
ですから、私は、ちゃんとした志らくの『死神』を見たいと、
いつも思っています。
結局、私はどこかで志らくを信用しているのです。

そして、自分のこともどこかで信用しています。
それがどうしてなのか、
それをどこで身に付けたのかは分かりません。
でも、勝負のときには、勝負できる妙な自信はある。
コレも事実なのです。

だから、私は幼くていいのです。
そして、みんなも幼くていいのです。

戻る力がどれだけあるかは、わかりません。
よほどのことがない限り、
それを人に見せる必要なんてないからです。

“成熟”は幻想ではありませんでした。
むしろ、それは人の本質です。
でも、みんな普段見せることはない。
だから、分かる手段もない。

幼く振る舞う老人を前に、
それを見破れるようになったら素敵ですね。

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