■ 布置
2月に、事業部門の一つを売りました。
そのために、スタッフの一部は新しい職場に移動していきました。
移動したスタッフの1人は、移動後の最初の日曜日に我が家に遊びに来ました。
また、あるスタッフは、バレンタインデーのチョコレートと一緒に 手書きの長い手紙を持ってきてくれました。
今回の売却は、何もかもが順調というわけにはいきませんでした。
新しい職場に移動せずに、別の職場に再就職した者が2名います。
お別れ会の時に、その2人が言った言葉に私は驚きました。
「社長の元で働けないなら、どこでもいいやー。それなら、新しい所に飛び込んでみようって思ったんです・・」
申し訳ないなーと思う言葉であり、ありがたいなーとも思える言葉でもあり、自由な思考に感心する言葉でもありました。
今回の件を終えて知ったことは、手前味噌になってしまいますが、 みんなが感謝をしてくれていることでした(まー、嫌な人はその前に辞めますからね・・)。
もちろん、そのまま100%受け入れるつもりはありませんが、どうも自分が思っているよりも少しはマシな経営者のようです・・・。
それに、社員のそんな評価は別にして、今回の件を決断し、粛々と 作業を進めたことは、我ながら「偉い!」とちょっと誉めてもいいと思っています。
経営者が問われるのは、次を予測し早めに手を打つことですから、 今回の仕事はその定義にぴったり当てはまる良い仕事だったと思っています。
しかし、
どうして私なのか?
どうして私がそれをやっているのか?
それは不思議です。
謎以外の何ものでもありません・・・。
野村克也さんの『負け方の極意』に次のような記述があります。
人間はすべて、なんらかの長所や特長を持っている。
たとえ鳴かず飛ばずの選手であっても、彼らは狭き門をくぐってプロ野球の世界に入ってきたわけだから、間違いなくそれなりの力は持っているはずなのだ。
にもかかわらず、結果が出なかったのは、自分自身と周囲がその長所に気づいていないか、その活かしかたを知らないでいたことが原因になっているケースがほとんどなのだ。
・・・・選手自身が「自分の力はこの程度だ」と自己限定していたり、過去の成功体験に囚われるあまり、眠っている潜在能力を生かせなくなったりしているケースも非常に多い。
こういう記述を見ると、私が「ありがたいなー」と人生に感じていることと真逆の状況にある人もいる。
それも「それなりの力を持っている」人が・・・です。
一体、世の中の“布置”とは、 どんな仕組みでできているのでしょうか?
誰にでも「眠っている潜在能力」があります。
このことは粗悪なセミナー屋に繰り返し言われなくとも、 誰もが承知のことと思います。
でも、布置に瑕疵があればそれまでです。
将棋盤に、間違ったコマを置いてしまえば、それで勝負は終わりの ように、私たちのリアルな人生でも実に逆転が難しいのが現実です。
それも将棋ならば、それぞれのコマの特徴を承知して勝負ができますが、リアルな世界では、唯一のコマである”自分”の特徴がわからないのです。
今回の件で、私は「自分には、こんな能力があるんだ。こんな特性があるんだ」と初めて知ったような状況です。
そして、それは誰もがそうでしょう。
自分のことはよくわからないのです。
また、仮にある程度、自分の力がわかっているとしても、 「それなりの力を持っている」人たちが、全員、適性にあった布置にあずかれるか・・・、また布置された人生が、満足のいくものか・・・というのはわかりません。
1億人以上が住むこの国には、大雑把に2つの仕事があります。
コモディティとコモディティ以外です。
そして、圧倒的にコモディティが多いのが現実です。
いくらコモディティがAIに代わると言われていても、 AIができないコモディティはたくさんありますし、むしろ、 AIによって減るのはコモディティ以外の仕事かもしれません。
また、野村さんの発言は、人と仕事が一対一で対応していることが 前提で書かれているように思います。ですから、眠っている潜在能力を活かせる仕事はどこかにある。ただ、それが見つかっていないだけ・・・というお話になっています。
しかし、現実はそうではありません。
「それなりの力を持っている」としても「眠っている潜在能力」があるとしても、それが活かせる場所は約束されていませんし、出会ったとしても本人が満足できないかもしれません。
野村さんが言うよりも、現実は厳しいのです。
それでは、私がここで言いたいことは 「だから、誰もが人生に満足できるわけではない」 という結論かというとそうではありません。その逆です。
「冷静に考えると、生きていくというのは、そんなに簡単なことじゃないように思える。でも、そうじゃないようだ・・・」 と言いたいのです。
「・・・ようだ」なんて言っていますから、まだ断言できるレベルにはありません。
でも、野村さんが、安易に発言してしまうほどに、 どうもナニカアル・・・と思えるのです。
もちろん、野村さんは成功者です。
泳ぎきった向こう岸で発言していることはわかっています。
しかし、ナニカアル・・・のです。
トルストイの言葉は、そのことを言っているような気がして なりません。
「人間の最大の悪、それは鈍感である」
うまく言葉にできないのですが、結局は、すべて 敏感さの問題であり、客観化の問題であり、その結果が人生で、 それを見て「ナニカアル・・」って思っている風があります。
ところで、今日、八丈島で放したウミガメが秋田の海まで 泳いできた・・という話がNHKのニュースでやっていました。
八丈島で放したウミガメが、日本海側で、 しかも秋田のような北方まで泳いでくることは通常ないそうです。
でも、そのウミガメは秋田まで泳いできました。
私は、そのニュースを見て、 「きっと、泳ぎたかったんだ・・・」と思いました。
それは、仮に餌が少なくてたまたま泳いでいったのだとしても、 結果的には泳ぎたかったんだと思うのです。
そして、そんな正直な気分と行動、そして好奇心が布置を決め、 その奥には潜在力の誘導があるのではないかと信じています。
そして、そういう生き物の特性も「敏感」と呼びたいと思います。
「社長の元で働けないなら、どこでもいいやー。それなら、新しい所に飛び込んでみようって思ったんです・・・」 という気分にとても共感するのも、「ナニカアル・・・」の正体を 垣間見たような気がするからかもしれません。
|