■ It
英語の「It rains」というのは、よーく考えてみると、 日本人にはなじまない表現だ。
「英語チャン!!そうまでしても“主語”と“動詞”は使いたいのね」と言いたくなってしまう。
ただし、“主語”と“動詞”ならば、「雨が降る」でもいい。
でも、英語はそれをしない。
日本語で主語となる“雨”は、英語では主語にならない。
背後に、神があるから・・・。
そうなのかもしれない。
フロイトは、本能的衝動(リビドー)の源泉を“Es(エス)”と 表現した。
“Es”は、英語の“It”のことだ。
私たちの心理は、私たちの自我では制御できない神のような力に規制されている。
フロイトは、そう言いたかったらしい。
主語“I”の背後にも“It”がいるのだ。
二世経営者と言われる人たちがいる。
この言葉、実はニュートラルな言葉ではない。
言葉の裏には、少し皮肉った気分のようなものがある。
その皮肉った気分を完璧に打ち砕くレベルの優秀な二世経営者はいる。
私個人は、そうした優秀な二世経営者とのご縁が多い方だと思っている。
しかし、残念ながら多くの二世経営者は、皮肉られてちょうどいいかもしれない。
ただし、私はそれを不思議に思う。
どうして、二世経営者の多くは、自我構造が弱いのだろうか?
親の七光りだってなんだっていい。その前に自我構造が弱い人が多いと思うのだ。
自我構造の何が弱いか?
“Es”である。
神が弱いのである。
もちろん、強い方がいいという話ではない。強いからといって社会で成功しているとは限らない。
弱いといって失敗しているわけでもない。
強い人の中には犯罪者もいる。
自然は過酷だ。
美しい景色を見せてくれているかと思うと雷を落とす。
普段は静かでも、いつ地震や津波が来るかはわからない。
しかし、人は本能的に、 自然を自分たちのシステムの中に取り込もうとする。
それを『神をカゴの中に入れる行為』だとは誰も思わない。
神からは、都合の良い恵みだけをもらう。
怒りは制御しようとする。
そして、人々は、それなりの制御に成功してきた。
それなりは、それなりでしかないが、それでも平時には機能する。
私たちは、神の大いなる怒りに恐怖し、用心しながらも、 平穏な時を過ごしている。
その人間の癖はおさまらない。
だから、私たちの背後にある神をも制御しようとする。
神が神を制御しようとする。
創業経営者は、強烈だ。
その強烈さは、“Es”を源泉とする。
強い神があって、その強烈なエネルギーを放出する。
同時に、他の神を支配しようとする。
小さな息子の神は、抑圧される。
おそらく、そんなことではないか・・・と考えている。
ある三代目に宿題を出した。
「死んだお父さんがどんなことをしてきたか調べてきて」
そのお題を進める過程で、ある雑誌が出てきた。
お父さんのインタビューが掲載された雑誌である。
そのインタビューの最後で、「夢はなんですか?」の問いに、 二世であるお父さんは答えている。
「大人になりたい」
この1行を見て、私は思った。
おそらく、創業社長と二代目のお父さんの関係は、 軽い共生関係だったのだ。
強烈な一代目が、自我構造の「親」の部分を担い、 二代目は、そのエネルギー(“Es”)の多くを「子ども」としてしか 発言できなかったのだ。
・・・ということを書き連ねてきたのは、二世経営者を皮肉るためではない。
わたしの“Es”を考えたいのだ。
“Es”の抑圧例は無限にあって、これを書いている私(創業経営者だけど・・・)にも、それはある。
さらに、もう1つの問題がある。
フロイトは、心は1つの装置と考えた。
この装置は、“Es” “ego(自我)” “super ego(超自我)”という3つから なる。
“Es”はここまで書いてきたように、過酷な自然であり、神だ。
快楽を求めて、本能のままに「今すぐあれがしたい」欲求エネルギーを発散する。
この“Es”をコントロールするのが“ego”だ。
「嫌だけど生活のためにやる」という機能を果たす。
経験を積むと、“ego”は大きくなる。
“Es”エネルギーのコントロール力は強くなる。
そして、私たちは、神から遠くなる。
神は過酷だ。容赦がない。
しかし、神から離れてはいけない。
どんなに都合の悪い乱暴を働くにしても邪魔にしてはいけない。
神は、生きる源泉なのだから。
神を沈黙させてはいけない。
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