■ストーカー行為
「自分をごまかす」という言葉がある。
自分をごまかす。
だから、ハッピー。
でも、他人は、ごまかせていない。
みんな見えている。
でも、自分はそれに気付かないので、やっぱりハッピー。
実に、恐ろしい言葉だ。
私も、自分をハッピーだと思っている。
だから、「そのハッピー、大丈夫?」と問われれば、 まっすぐ相手を見られないと思う。
人間誰だって、どこかで自分をごまかしている。
「仕方がない」という言葉は、 “ごまかし”を正当化する便利な言葉だ。
だから、「そのハッピー、大丈夫?」と問われれば、 まずこの言葉が浮かぶ。
一瞬バランスが崩れた私たちに安定を与える究極の言葉だ。
「仕方がない」には、便利な他の機能もある。
例えば、思いやりの機能。
他者の失敗に対して、「仕方ないね」と言うのが典型的な使い方。
しかし、他者にこの言葉を使う時、その人物に対する“諦め”が 包含する場合もある。
自分にとって、どうでもいいやつには、「仕方がなかったんだよ!」と言っておいた方が、その場のバツの悪さを回避できる。
そして、「仕方がない」のこうした使い方は、自分に対して使う時とベクトルを一緒にする。
だから、自分の心の中で「仕方がない」と吐露するのは、 自分のことをどうでもいいと思っているということである(というのは言いすぎか?)。
自信と不安にはバランスがある。
自信だけでは生きられないし、不安だけでも生きられない。
そして、一定のバランスを保っているからハッピーなのだ。
ところが、それが崩れそうになる時がある。
「仕方がない」は、このバランスを崩さないために、
心の中で一生懸命唱える呪文。
でも、この言葉を唱えてもバランスが戻らない時、 最上級の言葉が飛び出す。
「もう、どうでもいいや」
「仕方がない」という言葉の最上級である(と私は思っている)。
そして、一種の人生の放棄である(一瞬だけどね・・・)。
解決できないアクシデントが起きた時の心の過程を、 哲学者みたいに分解してみると、こんな感じになるかもしれない。
「仕方ない」と「もう、どうでもいいや」という言葉は、 この不安定な世の中を生きていく上で、とても便利な道具だ。
そして、この言葉の発生によって、一連のアクシデントは 一応収束する。ジ・エンドである。
では、バランスが崩れてしまった時に、 この便利な呪文を使わないとどうなるだろうか?
バランスが崩れたままだから気分が悪い。
それが続く。
居ても立っても居られなくなる。
しかし、ジ・エンドにはならない。
そこで、意識的に、これらの呪文を封印する。
「気分は悪いが、仕方がない」という使い方になると、 面白いことに希望的になる。
この希望的「仕方がない」を“諦念”という。
思春期の典型的“諦念”は、失恋だ。
失恋に希望を見る者はいない。
むしろ、そういう場合の心の声は、
「どうして?どうして?」「なぜだ?なぜだ?」だろう。
諦めきれない心の叫びである(ここまでは、ストーカーと同じ)。
でも、どんなに叫んでも強制的にリセットされちゃうので、 どうにもならない。
悔しさを味わい尽くした後、本人は再び歩み始める。
(ストーカーは、リセットを認めずに事実の変更を強要する)
要は、ここ。
味わい尽くすこと。
「気分は悪いが、仕方がない」というのは、 「悪い気分を味わい尽くします。仕方ないけど、それしかないしね・・・」ということ。
つまり、こうなる。
▽ストーカー
事実を強引に変えようとする。行動的な認知不協和生物
▽自分をごまかす人
事実の解釈を強引に変更。非行動的な認知転換生物
▽諦念の人
ただ感じて動く。ただの生物
「自分をごまかす」というのは、 自らの心に対するストーカー行為である。
日本中で、自己に対するストーカー行為が起きている。
その方が社会的には便利だからね。
でも、ストーカー行為だよ。
だから、その末路は見えている。
まさに、そこが、最も予言的なのだ。
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