■ 73歳
私はいま十八歳でなくて幸福だ。
・・・私が十八歳のときにはドイツもまだやっと十八歳であった。そのころはまだ何かが出来たが、今では信ぜられないほど 多く要求され、どの道も塞がれている。
ドイツ自身も各方面にわたって非常に高い程度に進んで、 その全部に眼を通すことはむずかしい。
それなのに我々はなおギリシャ人やローマ人に、おまけに フランス人や英国人にならねばならぬという。
いやそれどころか、また東洋の方を指示するという狂気じみた 考えさえもっている。だから青年は全く迷わざるをえない。
(中略)
彼は立派な青年だ。彼が注意して方々へ気を散らさなかったなら、ひとかどの人となろう。
しかし、すでに言ったように、今からいう全く完成した時代に 於て、自分は若くなくて幸福だ。若かったら、私はここにじっとしていられないだろう。それどころか、アメリカへ逃れようと してももう遅い。なぜならばあそこもすでに明るくなりすぎて いようから
(ゲーテ)
長女が二度目の旅立ちをしました。
大学を卒業して就職した会社は2年と数カ月しかもたず、 家に帰ってきました。そして、3カ月ほどの間、私たち夫婦は彼女と6年ぶりに暮らしました。
再就職が決まり、再び東京へ旅立っていった今は、また夫婦2人だけの生活に戻りましたが、私たちにとって大事な時間となりました。
そして、適度な親孝行をしてもらった・・・という感じが しています。
おそらく、彼女の記憶にも、思い出の時間として残り続けるのだと 思います。
世界は、私たちを急かします。
子どもたちにも、「夢を持て」と強引に迫ってきます。
そんな時代に、子どもたちの姿を見て思うことは、 ゲーテと同じです。
「私はいま22歳でなくて幸福だ」と思います。
実際、私は、そのことを子どもたちにも言ってきました。
でも、彼らは、この時代を生きねばなりません。
そして、私たちも・・・・・・・。
私は戦争が終わって16年後に生まれました。
子どもの頃はまったく気付きませんでしたが、たったの16年です。
ですから、私は戦後日本が思春期の時に生まれ、戦後日本が40歳という働き盛りの時に、社会に出たことになります。
今思えば何もかもが恵まれていたのです。
長女は、戦後日本が47歳の時に生まれました。
この時、戦後日本は中年期の混乱の中にいました。
20~30代の早すぎる成功に調子に乗ってしまい、 いわゆる“セルフの逆襲”がはじまってしまったというわけです。
そして、気づけば70歳。その年に、娘は社会に旅立ちました。
今の70歳は、昔より元気ですが、社会に旅立つ子どもたちの面倒を十分に見るほどの力は残っていません。
だから、 「信じられないほど多く要求され、どの道も塞がれて」います。
「青年は全く迷わざるをえない」のです。
現在、戦後日本は73歳。
明治日本は73歳を迎えてアメリカとドンパチをはじめてしまい ました。
上記のゲーテの言葉は、ウィーン体制が生まれて10年ほどがたった頃のものと思われます。ドイツも73歳くらい。 ドイツ帝国誕生までにはあと50年を待たねばなりません。
ドイツ、明治日本、戦後日本の3つをトレースしただけでは 言い切れませんが、国家の70代というのは、次の時代の黎明期と 考えて良さそうです。
そういう時代には、私たちはどう生きるべきなのか?
そのヒントも、歴史の中にはたくさん隠れています。
1つを例に挙げれば、 上記のゲーテの言葉の引用元『ゲーテとの対話』。
この本がヒント満載なのは言うまでもないでしょう。
学校の歴史の教科書をはじめとして、大きな歴史を追いかけても ヒントは得られませんが、私たちのもとには、似たような時代を 生きた人たちの著書が大量にあるのです。
そして、このことに気付くと、亀井勝一郎が昭和30年代(戦後日本10歳)の頃に起こした歴史論争の意味が屹立してきます。
今、私の子どもたちに必要なものは、生きた言葉です。
ゲーテがエッカーマンに語ったような言葉です。
それぞれの世代が生きる環境は、それぞれに大きく違います。
わが娘と私では、根本から環境が違います。
しかし、私たちの体験は、ナマモノです。
ゲーテの言葉も、同様です。
必要なのは、「夢を持て」でも、「ITの知識」でもありません。
おそらく、成人した子どもたちには、親の赤裸々な言葉は有効だと 思います。
お説教とか、格言とか、ノウハウとか、成功物語ではありません。
「赤裸々な情けない体験」それが役に立つように思います。
そんなことを教えてくれた彼女との3カ月も、 今では思い出の中です。
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