■ 基礎体力
映画『女は二度決断する』のラストは、 そのまま見ても感動的なラストです。
でも、そのまま見るのでは、あまりにももったいない。
この映画のラストで、何が引用されているかを知っていたら、 その感動は計り知れないものがあります。
フランソワ・オゾンの『危険なプロット』なんかもそうです。
最後の最後に種明かしされることは、 それほど話の流れとは関係ありません。
でも、そこに作り手の意思の表明があります。 「実は、こうなのよ!」とニヤニヤほくそ笑んでいる。 そして、私たちはその作り手のメッセージに驚がくする。 そういう類いのものです。
今年の『映像セミナー』で上映した作品もそうです。
話がはじまってすぐに現れる文字の中には、 知る者が見ればワクワクしないではいられない一言があります。
でも、それは単なる文字ですから、 多くの人は読みもしない代物です。
まさかその一文字が、 この映画を見る大きなヒントだと気付く人なんて、あまりいません。
・・・・・というようなことを聞かされると、残念がる人がいます。
そりゃ、そうでしょう。
同じものを見て、違う感じ方がある・・というだけならまだいいですが、事前知識があるかないかは、実は作品そのものの鑑賞が許されているかどうか・・レベルのものである場合があるからです。
しかし、これは映画に限ることではありません。
なんだって、そうです。
きっと、プロレスでさえそうだと思います。 過去の名勝負を既存知識で知っているかどうかで、 かなり違うはずです。
この件に関して、 ある30歳代前半の人が次のようなことを言いました。
「悔しいけど、どうにもならないなー」
でも、そうでしょうか?
この問題の解は、実に簡単です。
それも、ほとんどのジャンルに当てはまると思います。
古典だけを見ればいい。
単に、これだけのことです。
ここで重要なのは、「だけ」という部分です。
映画で言えば、今の映画なんて見なくていい・・・ということです。
毎年、大量の映画が上映されます。
これを追いかけていたら、大変なことになります。
でも、ありがたいことに世界が驚がくするような新しいものなんて、ほぼありません。
もちろん、視点の新しいものはあります。
昨年で言えば、 『ザ・スクエア』と『心と体と』の視点には驚きました。
でも、これらの映画が古典になっていくかと問えば、 それはないでしょう。
古典となって生き残りが許されるものは、ほんのわずかで、 そういうレベルのものは3年に1本あるかないかです。
つまり、5年くらい見なくても何の問題もありません。
そして、その5年を古典の鑑賞に当てればよいのです。
おそらく、ハリウッド映画のようなものを映画と思っている人には、昔の名作とされる映画はハードルが高いと思います。 私も、大学1年生で上京し、はじめてフェリーニを見たときには、 そのタッチの大きな違いに驚きました。
でも、わからなくても踏ん張って見たのは、何かわからないけど 魅力を感じたからです。
自分なりの鑑賞眼は、そんな修業を積んで手に入れました。
今では、有名な映画祭が賞を与えようと、 有名評論家がどんなに誉めようと、私には私の基準があって、 どんな有名作品でも平気でけなしています。
ちなみに、私が集中的に過去の名作を見続けたのは、 7年くらいの期間だと思います。
私のお目当ては、時々名画座で上映されるような作品で、 当時は、DVDがないどころか、VHSになるのもポピュラーな作品 ばかりでした。
そのため、名画座へ足しげく通って見る方法しかありません(なお、私は今の便利な時代になっても、DVDなどで映画を見る気はまったくありません)。
音楽だって、5年くらい今の作品を聞くのなんてやめればいいと 思います。
映画は今でも良質な作品がたくさん発表されますが、日本の 音楽の状況は、末期も超えてにっちもさっちもいかない状況です。
聞くべき素晴らしい音楽はゼロではありませんが、 あまりにも少ない。
また良質なものでも、世界が驚がくするレベルのものはありません。
最近、フェラ・クティの息子たちが良質なアルバムを出していますが、別にあんなものは聞かなくてもいい(極端なことを言っています)。
彼らの親父が作りあげた膨大なアルバム群を聞くほうが重要です。
今のジャズはとても面白いです。
先日見た、クリス・デイヴの新しいバンドは素晴らしかったですが、マイルス・デイヴィスが70年代にやったことを、 どれだけ超えているかは疑問です。
あのすごいライブは、結局、70年代マイルスをベースに、 サニー・アデや80年代UKソウルを乗せたものでしかありません(再び極端なことを言っています)。
本だってそうです。
この間、英語の読書会で 『Thinking in Bets』という本を読みました。
アメリカで今話題の本で、翻訳はされていないそうです。
でも、私が読む限り、新しいことなんて何も書かれていません。
私ごときが知っていることを、作者の言いたい結論の小道具として、いろいろ引用されているだけです。
もちろん、本が悪かったのかもしれませんが、こんなものを読む くらいなら、その元ネタ本を読むほうがいいに決まっています。
大量の本が今日も出版されています。
でも、量だけです。
見るべきものはありません。
だから、安心して、すでに地位を獲得した本を読めばいい。 そう思います。
そして、このことに気付くと、何の焦りもなくなります。
時間はたっぷりあります。
私たちは、あらゆるジャンルの新製品を無視して(電化製品とかは別ですよ)、歴史の波を乗り越えた作品を選択すればいいのです。
当たり前のことを書いていますが、 この“開き直り”を実際に実行している人は皆無だと思います。
何事も、基礎が大事です。
そして、例えば、映画を見ることを、時間とお金の消費レベルにするか、趣味レベルにするかも、その人の基礎体力で決まります。
だから、人生を面白くできるかどうかは、 基礎体力の量で決まっていると私は思うのです。
要は、すべてが選択だという一事です。
どの基礎体力を作るかは自由です。
そして、すべてを消費の人生で過ごす覚悟の人もいることでしょう。
それはそれでいいと思います(覚悟という言い方は嫌みですね)。
しかし、私みたいな人間に言わせると、覚悟でもなければ、 消費の人生なんて歩めません。
だから、私は今でも基礎体力を思考します。
そろそろ、3年間の英語学習を終わりにするときが来たので、 次の基礎学習が楽しみになってきています。
もちろん、何をするかは決めています。
だって、もっと人生を楽しみたいですからね。
くどいですが、この原稿の私の主張は極端です。
でも、嫌われるから誰も言わないだけで、重要な真実だと思います。
そして、この極論をもう少し進めてみましょう。
見るべき映画はどれくらいあるかを計算してみたいと思います。
タルコフスキーや小津、ベルイマンなど佳作の監督の全作品は網羅し、ゴダールは全作品の3分の2は見たい、黒澤も『どですかでん』までは全て見たい・・・などと計算していくと、だいたい1,000本。
これが音楽だと、そもそも、今の流行歌を聞くくらいならビートルズやカーティスの全カタログ、マイルスの全カタログ・・・・・・・と聞いていく羽目になるので、おそらく数千枚。
さらに、本だと何万冊になりそうです。
映画が一番ハードルが低いことを発見。
やってみる価値はあるかもしれません(笑)。
本は歴史が古いだけに、格闘ですね。
もはや、残りの人生では無理・・・・ということのようです。
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