■魔法願望
先月のシミュラークル話の続きが書きたい。
先月のお話は、ドキュメンタリー映画『リビング ザ ゲーム』の登場人物たちが、『週刊 少年ジャンプ』の登場人物のように動き回り、発言をすることに、私は驚いた・・・というものだった。
ボードリヤールの指摘など全然甘くて、生きている人々が シミュラークル化している。
それは、ゲームで生活をしている特殊な若者たちだけの話ではなく、私だって自分で気付いていないだけで、きっとそうなのだ。 日本人なんて、もうみんなマンガ化している・・・・・・というのが結論だった。
でぇ、お話はここから。
この間、久しぶりに本屋に行った。
東京駅構内の小さな本屋なので、ビジネス書比率がとても高かった。
私は、その本屋で、軽く吐き気がした。
ビジネス書の表紙があまりにも気持ちが悪くて、 拒絶反応を起こしたらしい。
吐き気は、某有名著者の新刊がランキングに入っているのを 見たせいもあったかもしれない。 私は新刊ランキングを見て思った。
「こういう著者が世の中を悪くしている・・・」
ビジネス書爆弾の近くに居られなくなった私は、 数分で本屋を後にした。
本屋を出ると少し冷静になったようで、 先ほど心の中で悪態をついた著者に対して思った。
「そもそも、あの著者はニーズがあるから書いているわけで、 あざといだけとも取れる。最低限、私なんかよりも商売上手と言えるだろう」
“魔法願望”が、いつからニーズの主流になったのかはわからない。
私のわずかな記憶では、90年代以降のように思う。
『週刊 少年ジャンプ』が500万部を超えたのが1989年。 91年には600万部を超える。急激な伸びである。 そして、1995年に653万部というピークを迎え退潮していく。 現在は200万部を切っているが、ネットなどに移行しているだけで、基本的なニーズは変わっていないと考えられる。
『週刊 少年ジャンプ』の隆盛と“魔法願望”を関連付けてみても 仕方がない。そもそも無理がある。 しかし、この手の少年雑誌が売れる時代の雰囲気と“魔法願望”には、それなりの関連がないだろうか?
もちろん、『少年ジャンプ』が、『アストロ球団』『リングにかけろ』みたいなものだけではないことは心得ている。 『キャプテン』を出自とする努力ものもメインコンテンツだ。 そして、『リビング ザ ゲーム』の主人公たちも、『キャプテン』や『はじめの一歩』(ジャンプじゃないけど・・・)のように、努力を続けている。
でも、マンガはマンガで、そこにマンガ的な結末がある。 そこが映画とは違うところで、マンガには、マンガ的結末、 それはハリウッド的と言ってもいいのだけれど・・・、 がないと成立しない。
さらに、努力したけどダメでした・・・という世の中の現実も、 映画では許されても、マンガでは基本的に許されない。
この2つの特徴を持つマンガが、シミュラークルと化し、 日本人の背後霊として憑依すれば、 つまらないビジネス書は大いに売れて当然だ。
・・・という私のむりやりな話の展開は置いておいたとしても、 いわゆる自己啓発本の多さと、それが若者に売れる景色は、 私の若い頃の景色とは大きく違う。 自己啓発本は、この30年で大衆化した。 マンガの結末の大衆化である。
それはイニシエーションの消失の流れと一致する(と思う)。
現在、多くのイニシエーションが消滅。 今は最後の牙城である葬式が、ターゲットになっている。
そしてそのうち、イニシエーションもマンガの中だけのものになるのかもしれない。
イニシエーションを通らない成長はない。 それを知識で知っていても意味はない。深い体験だけが意味を成す。
しかし、そのイニシエーションが、少しずつ深い意味を奪われ、 さらに、それ自体が消失をはじめ、今はマンガの中の重要コンテンツとなっている。
私たちは、成長の機会を奪われ、“魔法願望”を胸に毎日を生きる。
そして、それを人生と思う。
前回、私がシミュラークル化、マンガ化と表現したことはそんなことであり、そういうことを書いている私自身も、多かれ少なかれ、 そんな毎日を生きているのだと思う。
私はマンガチックな人物を避けてきた・・・と書いてはいるが、 その私もマンガチックであることに変わりはない。
イニシエーションは、死と再生。
アボリジニのイニシエーションの中には、 死を疑似体験するものもある。
死は、“わたし”の喪失。
今までの”わたし”に別れを告げる過酷な体験を経て再生する。
これが成長の必要条件。
現代人は今、子どものままで生きている。
おかげで、喪失することが人生の重要なファクターであることを 知らない。
理屈ではわかっていても、身体がそれに反応できない。
だいたい、頭でわかっているような喪失は、喪失として意味がない。
そして、喪失の代わりに、「マンガ的」を選ぶ。
“魔法願望”は、「マンガ的」の代表だ。
あざとい著者は、その様子を見て取って言う。
「そのままでいいよ。そのままでも変われるよ」
まるで、映画『マトリックス』の世界だ。
しかし、その映画と現代社会は大きく違う。
映画の『マトリックス』は、マトリックスとしての条件を備えている。だから、疑似であろうと、そこで人生も生き、そして終えることができる。
しかし、現代社会はその要件が備わっていない。
栄養は不十分で、排出物の処理はされない。 もちろん世界に対する信頼なんてない。
では、どうすればいいか?
言うまでもない。
イニシエーションを意図的に体験する人生を組めばいい。
それは、小さなイニシエーションでも良い。
小さなことでも、そこに震えるような悔しさとか疎外感とか無力感があれば十分。
それは不幸ではなく、次の展開のための重要な爆薬だ。
人生のガイダンスを人気エンターテイナーに求めようとするのは あまり良い考えとは言えないな、むしろ容易ならざる事態だよ。
そいつはまったく由々しき事態だ。 そういうことは誰にも勧めないね。 人気エンターテイナーって職業は結構だ、 そこんところには何も問題はないけど、 それはあくまで自分の立ち位置と、 その土俵がどこにあるのかがわかっていればの話でね。
エンターテイナーの多くは、自分で自分が何をやっているのか、 まるでわかっちゃいないんだよ。
(ボブ・ディラン)
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