2018年12月11日 第698号

目 次
  1. TAROの独り言
  2. コブラツイストは、ツボに効く
    ・・・魔法願望
  3. まーけ塾レポート
    ・・・8. ギグ・エコノミーと人手不足
  4. Q&A
    ・・・会社内で社員同士でのいざこざ
  5. しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
    ・・・『アニエス・ヴァルダ』 
  6. 砂漠の中から本を探す
    ・・・『本の虫の本』
  7. 構造で映画を見る。時々、いいかげんに映画を見る。
    ・・・『運命は踊る』
  8. TAROの迷い言
2. コブラツイストは、ツボに効く

■魔法願望

先月のシミュラークル話の続きが書きたい。

先月のお話は、ドキュメンタリー映画『リビング ザ ゲーム』の登場人物たちが、『週刊 少年ジャンプ』の登場人物のように動き回り、発言をすることに、私は驚いた・・・というものだった。

ボードリヤールの指摘など全然甘くて、生きている人々が
シミュラークル化している。
それは、ゲームで生活をしている特殊な若者たちだけの話ではなく、私だって自分で気付いていないだけで、きっとそうなのだ。
日本人なんて、もうみんなマンガ化している・・・・・・というのが結論だった。

でぇ、お話はここから。

この間、久しぶりに本屋に行った。
東京駅構内の小さな本屋なので、ビジネス書比率がとても高かった。
私は、その本屋で、軽く吐き気がした。
ビジネス書の表紙があまりにも気持ちが悪くて、
拒絶反応を起こしたらしい。

吐き気は、某有名著者の新刊がランキングに入っているのを
見たせいもあったかもしれない。
私は新刊ランキングを見て思った。
「こういう著者が世の中を悪くしている・・・」

ビジネス書爆弾の近くに居られなくなった私は、
数分で本屋を後にした。

本屋を出ると少し冷静になったようで、
先ほど心の中で悪態をついた著者に対して思った。
「そもそも、あの著者はニーズがあるから書いているわけで、
あざといだけとも取れる。最低限、私なんかよりも商売上手と言えるだろう」

“魔法願望”が、いつからニーズの主流になったのかはわからない。
私のわずかな記憶では、90年代以降のように思う。

『週刊 少年ジャンプ』が500万部を超えたのが1989年。
91年には600万部を超える。急激な伸びである。
そして、1995年に653万部というピークを迎え退潮していく。
現在は200万部を切っているが、ネットなどに移行しているだけで、基本的なニーズは変わっていないと考えられる。

『週刊 少年ジャンプ』の隆盛と“魔法願望”を関連付けてみても
仕方がない。そもそも無理がある。
しかし、この手の少年雑誌が売れる時代の雰囲気と“魔法願望”には、それなりの関連がないだろうか?

もちろん、『少年ジャンプ』が、『アストロ球団』『リングにかけろ』みたいなものだけではないことは心得ている。
『キャプテン』を出自とする努力ものもメインコンテンツだ。
そして、『リビング ザ ゲーム』の主人公たちも、『キャプテン』や『はじめの一歩』(ジャンプじゃないけど・・・)のように、努力を続けている。

でも、マンガはマンガで、そこにマンガ的な結末がある。
そこが映画とは違うところで、マンガには、マンガ的結末、
それはハリウッド的と言ってもいいのだけれど・・・、
がないと成立しない。

さらに、努力したけどダメでした・・・という世の中の現実も、
映画では許されても、マンガでは基本的に許されない。

この2つの特徴を持つマンガが、シミュラークルと化し、
日本人の背後霊として憑依すれば、
つまらないビジネス書は大いに売れて当然だ。

・・・という私のむりやりな話の展開は置いておいたとしても、
いわゆる自己啓発本の多さと、それが若者に売れる景色は、
私の若い頃の景色とは大きく違う。
自己啓発本は、この30年で大衆化した。
マンガの結末の大衆化である。

それはイニシエーションの消失の流れと一致する(と思う)。
現在、多くのイニシエーションが消滅。
今は最後の牙城である葬式が、ターゲットになっている。
そしてそのうち、イニシエーションもマンガの中だけのものになるのかもしれない。

イニシエーションを通らない成長はない。
それを知識で知っていても意味はない。深い体験だけが意味を成す。
しかし、そのイニシエーションが、少しずつ深い意味を奪われ、
さらに、それ自体が消失をはじめ、今はマンガの中の重要コンテンツとなっている。

私たちは、成長の機会を奪われ、“魔法願望”を胸に毎日を生きる。
そして、それを人生と思う。
前回、私がシミュラークル化、マンガ化と表現したことはそんなことであり、そういうことを書いている私自身も、多かれ少なかれ、
そんな毎日を生きているのだと思う。
私はマンガチックな人物を避けてきた・・・と書いてはいるが、
その私もマンガチックであることに変わりはない。

イニシエーションは、死と再生。
アボリジニのイニシエーションの中には、
死を疑似体験するものもある。
死は、“わたし”の喪失。
今までの”わたし”に別れを告げる過酷な体験を経て再生する。
これが成長の必要条件。
現代人は今、子どものままで生きている。
おかげで、喪失することが人生の重要なファクターであることを
知らない。
理屈ではわかっていても、身体がそれに反応できない。
だいたい、頭でわかっているような喪失は、喪失として意味がない。
そして、喪失の代わりに、「マンガ的」を選ぶ。
“魔法願望”は、「マンガ的」の代表だ。
あざとい著者は、その様子を見て取って言う。
「そのままでいいよ。そのままでも変われるよ」

まるで、映画『マトリックス』の世界だ。
しかし、その映画と現代社会は大きく違う。
映画の『マトリックス』は、マトリックスとしての条件を備えている。だから、疑似であろうと、そこで人生も生き、そして終えることができる。

しかし、現代社会はその要件が備わっていない。
栄養は不十分で、排出物の処理はされない。
もちろん世界に対する信頼なんてない。

では、どうすればいいか?
言うまでもない。
イニシエーションを意図的に体験する人生を組めばいい。
それは、小さなイニシエーションでも良い。
小さなことでも、そこに震えるような悔しさとか疎外感とか無力感があれば十分。
それは不幸ではなく、次の展開のための重要な爆薬だ。


人生のガイダンスを人気エンターテイナーに求めようとするのは
あまり良い考えとは言えないな、むしろ容易ならざる事態だよ。

そいつはまったく由々しき事態だ。
そういうことは誰にも勧めないね。
人気エンターテイナーって職業は結構だ、
そこんところには何も問題はないけど、
それはあくまで自分の立ち位置と、
その土俵がどこにあるのかがわかっていればの話でね。

エンターテイナーの多くは、自分で自分が何をやっているのか、
まるでわかっちゃいないんだよ。

(ボブ・ディラン)


目次に戻る
このページを閉じる