■ 媚薬とノウハウ
正しいことをする
(Quite a few people)
『日経ビジネス』2018.05.28号の瀬戸欣哉さん(現在、LIXILグループ社長)の記事を読んでいて思った。
「こりゃ-、伝わらないだろうな」
“正しいことをする”
このことを否定する人は、ほぼいない。
でも、この言葉は標語に近い。
私たちには、2つの道徳がある。
他人が守るべき道徳と、自分が守るべき道徳だ。
だから、多くの道徳は、みんなが「その通り!」と言って うなずくけれど、守られることはない。
道徳の前では、誰もが自分をカッコにくくることになっている。
しかし、道徳というものは、 いつから「ドウトク」になったのだろう?
本来、道徳は「生きる知恵」だったはずだ。
例えば、“謙虚”というのは典型的な道徳だ。
これも言い過ぎてしまうが、 人間、心底から“謙虚”になってしまったら良くない。
人間は、生意気なところがあるから成長がある。
本当に、頭のてっぺんから足の先まで“謙虚”になってしまったら、 ブッダにでもなるしかない。
ただし、ブッダが謙虚だったかはわからないので、 これはあくまで記号として。
そもそも、私はマザー・テレサもダライ・ラマも 100%神様のような人だとは思っていないし、どちらかといえば、 2人ともなかなかの戦略家だと思っている。
まー、それはいいとして、本当に100%謙虚というのは、 実はフィクションだと思っている。
では、“謙虚”とは、何か?
これは数年前のニュースレターでも書いているけれど、 「技術」の1つだと思っている。 私たちの心の中は、とことん貪欲だ。 そして、それは人間なんだから当たり前。
だが、それをそのまま外で表現するのは、 社会で生きていく上ではうまくない。
だから、“謙虚”という「技術」がある。
では、“謙虚”とはただの「技術」なのか?
それは違う。
人は、とことん貪欲に自己成長を目指せば、 どこかの段階で自然に謙虚になるはずだ。
目標にする必要はないが、ある種の人間の到達点でもある。
しかし、それでも100%謙虚はフィクションだと思う。
そして、人はそれでいいのだ。
“正しいことをする”も「技術」だ。
それもかなり強力な「技術」だ。
しかし、そのことを先人たちがどんなに語ろうと、 聞き手にはちゃんと伝わらない。
単なる年寄りの“道徳”と思われているのだから仕方がない。
でも、“正しいことをする”は「技術」であり、「ノウハウ」だ。
それもかなり強力な・・・・・・・・。
世の中に流布する「ノウハウ」と称されるもののほぼ全部は、 単なる「媚薬」だ。
「媚薬」は、時に効果はあるがそれは幻想で、 本来、因果関係はない。もちろん、相関関係もない。
でも、人は、1つの原因を求めるから、 「媚薬」に全ての実績を与えてその効用を称賛する。
たまたま昨日、当社のお客様に「媚薬」の使用法を偉そうに語っていた建築屋さんの話が出た。
その建築屋さんは、今はどこに居るのかもわからないらしい。
「媚薬」の悲劇であり、とても多いお話である。
“正しいことをする”という「ノウハウ」の話に戻そう。
「ノウハウ」という音の響き、嫌いではない。
だって、 「ノウハウ」と言われると効果がありそうな匂いがするではないか。
「媚薬」が、その悪魔性を隠して「ノウハウ」と自称するのも よくわかる。
そして、「ノウハウ」として、“正しいことをする”を見てみると俄然見え方が違うではないか(私だけ?)。
要はそこだ。
だから、弱い私は、いつも惰性に流されそうになりつつも、 なんとか踏ん張る。
だって、「ノウハウ」通りやらないと、ヤバイじゃないか。
それも、多くの人がこの「技術」を軽視しているのだから、 みんなが気付かないうちになるべく多用しておくべきだと、 姑息にいつも思っている。
ただし、問題は残る。
“正しいこと”って何だろうか?
さらに、“正しいことを、信念を持ってやる”なんて言葉になると、 厄介さは増す。
“信念”って何だろうか?
つまり、すでにこの「ノウハウ」を使えない、 スタートラインに立てない人がいる・・・という事実が あるということは見逃せない。
“正しいこと”も“信念”も、100%の定義は不能だ。
ある種の「フェルトセンス」と言ってもいいだろう。
親の子どもに対する基礎教育の重要性、 そして小中学校の教育の重要性がここにある。
残念ながら、瑕疵のある教育課程を過ごしてきたらしき人に、 たまに出会う。
そういう人は、間違いを指摘すると「わからない」と 悲しそうに言う。
これほど悲しい話はないではないか。
そして、逆に、“正しいこと”や“信念”が「フェルトセンス」している人ならば、この「ノウハウ」を使っていないということは、自己を貶めている行為に近いということではないか・・・・・・・・・・。
|