2019年3月26日 第714号

目 次
  1. TAROの独り言
  2. TAROくんの独り言拡大版
    ・・・記憶
  3. まーけ塾レポート
    ・・・23. 情報は、私のためにはないのだ
  4. Q&A
    ・・・親が子どものことをうらやむ感情
  5. しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
    ・・・『『ボヴァリー夫人』より』
  6. 砂漠の中から本を探す
    ・・・『ジェット・セックス』
  7. 構造で映画を見る。時々、いいかげんに映画を見る。
    ・・・『ヴィヴィアン・ウエストウッド 最強のエレガンス』
  8. TAROの迷い言
2. TAROくんの独り言拡大版

記憶

八幡山にラーメンを食べに行きました。

ラーメンのために約1時間をかけている余裕なんてまったくないのですが、ひょんなことから空白時間が出現してしまいました。
仕事をしようにも、やりようがない・・という状況に置かれてしまえば、発想を変えて、どこか遊びに行くしかありません。
そこで、八幡山のラーメン屋が思いついたというわけです。

神様から、「好きなことをしていいよー」って言われたような気が
して、今日一日、あとナニができるか・・・と考えつつ京王線に
乗りました。
本当は、そんな余裕まったくなしですが、
強制的に与えられたのですから、開き直るしかありません。

京王線に乗るのは、何年ぶりでしょうか?
学生時代は、ほぼ毎日乗っていた電車です。
そして、八幡山は、学生時代に一時住んだ場所です。

ラーメンは好みがあるので、その評価はしません。
ただ、「正しいラーメン」でした。だから、好感度は高いです。

「正しいラーメン」の定義は難しいのですが、最近、都内で勢力を
張っている二郎系、家系、一部のとんこつラーメン・・・・・・、
いわゆる大量化学調味料系ラーメンから遠い距離にあるものを
総称しています。ですから、定義は曖昧です。

東京では、めったに「正しいラーメン」にはありつけません。
そんなわけで、都内ではラーメンを食べなくなってしまいました。
本当に悲しい話です。
「正しいラーメン」に出会えただけで、メッケものです。
そして、こういうことは続くものです。翌日には、井土ヶ谷で、
コラーゲンたっぷりの「正しいとんこつラーメン」に出会いました。
さらに、その翌日には、
なじみの店のしょうゆラーメンのトッピングに、
激ウマの煮干しがさりげなく加わり、しょうゆラーメンと
焦がした煮干しの絶妙なバランスに大いに喜びました。

ラーメンに大きく話が旋回してすみません。
話を戻します。

先述したように、八幡山は私が約2年間住んだ場所です。
そして、本意じゃないですが、時間は余っています。
これはウロウロしないわけにいきません。
早速、昔住んでいたアパートに行くことにしました。
アパートはすでにないですが、跡地だけでも見ようという考えです。

しかし、どこだかわからないのです。
2本の道のどちらかであることは間違いないのですが、
どっちなのかがわからない。
記憶って、こんなものか?とあきれるばかりですが、
わからないのです。

そして、八幡山の他の思い出の場所(そこも昔とは変わってしまっていますが・・)を歩いても、思い出す街の状況なんてなんにもありません。

「昔、ここを歩いているときは、父も母も生きていた・・・」
そんな思いが、大通りを歩いていると浮かんできただけで、
街そのものの記憶はゼロ。
わずかに、3軒の本屋を覚えているだけです(その3軒も、影一つありませんでした)。

自分の住んでいた場所がどこかもわからない。
覚えているのは本屋の場所だけ・・・・・・・・・。

これを検証したくなって、さらに私は千歳烏山に行きました。
ここは、大学3年生から卒業直前まで住んだ場所です。

千歳烏山の記憶は少しマシでした。
アパートの場所は、ちゃんと覚えていました。
途中の道の記憶はほとんどありませんでしたが、
大家さんの家を含め、住んでいた場所はわかりました。

でも、他の記憶は、本屋2軒(1軒はまだありましたが、記憶とはだいぶ違いました)と中華料理屋1軒だけ(ここもまだありました)。
あとは、街の中心の巨大な公民館の記憶さえ曖昧です。
だいたい、どちらの街も、
買い物をしていたスーパーさえまったく記憶がありません。

私は、了解しました。
私は、東京にいながら、東京に住んでいなかったのです。
見えていたのは、本屋だけ。そして、時々、食べ物屋。
(でも、記憶の中華料理屋以外で食べた思い出はゼロです)

まったく懐かしさも感じない景色を見ながら、私は、何を見て、
何を感じていたのかを考えました。
生活の場でなかったことは了解しましたが、それでは、
私は何をしていたのでしょうか?
答えは、すぐに出ました。
記憶は、人が介在しないと残らない・・・・・・。
私は、この当たり前の事実に気付いていませんでした。

この当たり前のことは、「そりゃ、そうだよねー」と言っていれば
いい話でした。昔はそうでした・・・・・。
でも、今は、違います。とても示唆的な話です。

私が、ここ10年以上、買った本をいちいち記憶していないのは、
量が多いからだけではありません。
そこに人と場が介在していないからです。
服なんかもそうです。お店で買わなくなってから、
買ったことを忘却し、そのままになっている服があったりします。
逆に、よく着ている服には、店員の顔と場(店)の記憶が
刻まれていたりします。

『便利』は、最も重要な、消費要件です。
でも、その戦いはアマゾンに代表される大手にはかないません。
だから、私たちは、衝動買い的なものを対象にするのは
限界があります。

そもそも、消費の本質は記憶です。
そして、その記憶を動かすキューが大事なファクターです。
もちろん、重要なキューは人です。

生活必需品以外のあらゆる消費は、もう一度、
人を介在したものに変わっていくはずです。
最近、静かに動いているものの正体は、これです。
もはや、単なるレコメンドではダメなのです。

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