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間違い(9) 体質に合わないことをしたがる

一見、世の中は平等だ。
一見、世の中は自由だ。
そうした世の中のおかげで、私たちは自由にいろいろなものが選べる。

昔に生きたことがないので実感はできないけれど、私たちが今当たり前に自由にやっていることは、昔なら実現が大変なことだったのだろう。
そういう点で私たちは本当に恵まれている。

昔は、できることでもやれなかった。
そういう状況に天を仰いだ人はたくさんいたことだろう。
今は、逆。できないことでもほとんどのことが実行できる。

しかし、そういう時代になっても昔と何も変わらないのではと感じることはある。
たとえば、有名な漫画家の息子が映像作家として才能を発揮する姿に。
たとえば、非常に優秀な経営者2人が兄弟である事実に。
たとえば、自分は絶対に出合うことがない機会がこの世にはたくさんある事実に。

私たちが生まれながらに持つことになった家柄、血筋。
私たちが生まれながらに持つことになった才能、体質。
そんなものを意識するとき、私たちは世の中は平等でも自由でもないことに気づく。
そして、可能性さえもみんなが平等ではないことに気づく。

しかし、それは悪いことではない。
限界を知ることは良いことだ。
運動神経もないのにオリンピックをめざしたり、絵の才能もないのに画家を目指すのは悲劇以外のなにものでもない。

だが、同時に、諦めてしまうことが本来あった可能性をつぶしている場合だってあり得る。
ここら辺のさじ加減が難しい。

そこで、いつも自分の身体に「おまえの体質はどんな感じ?」などと問いながら、自分の体質を計る。自分のできることの限界を探ることになる(ちなみに、私はこうした問いをお正月に自分の身体に聞くことにしています)。

しかし、世の中には慌て者が多い。自分の「分」を計らないで、前向きな希望に向かっていく。
そして、端で見ていると「よせばいいのに・・」と思われることに突っ込んでいく。

やればできる・・・・こともあるが、やってもできない・・・・こともある。
ここら辺のサジ加減は重要だ。

そうすると、昔の不自由な時代が完全に不自由であったかどうかには疑う余地がありそうだ。
さらに、江戸時代には平賀源内のような人(←この人は多才でした)もいたわけだし、いくら不自由といっても、ある程度のバッファはあったように思われる。白土三平の『カムイ伝』のようなことばかりではなかったのではないか?
そして、自分には相応しくないものと出会う機会が少ないという安全性はあったかもしれない。

そう、今の時代の危険は「自分には相応しくないものと出会う機会が多い」ということなのだ。

不自由と安全。
自由とリスク。

こうやって言葉を並べると、あったり前のこと。今、私たちは昔なら考えないでよかったことに神経を向けなくてはならない。

自由の代償は大きい。

ところで、学校教育も自由の代償を払っている。あれは私たちの社会の縮図だ。
子供の自主性を重んじる理想主義はすばらしいことだが、それで起きた弊害は非常に多い。子供たちが基本的な作法もできなくなっている様は恐ろしい景色だ。

武富健司さんが描くマンガ『鈴木先生』には、学校で起きていることとその起きたことからはじまる様々な心理ゲームが描かれている。
連載当初、主人公の鈴木先生は、心理テクニックなどを屈指し見事に問題を乗り越えていく。
しかし、連載を重ねるにつれて、起こる状況をテクニックで観察することの限界やテクニックの効果が反対の結果を出すことなどが描かれるようになってきた。
自由というものが起こす様々な混乱を『鈴木先生』は非常に大胆に描いていると私は思う。

教育の現場の混乱は、自由と平等のはき違いからはじまり、モンスターといわれる親を出現させて混乱を続けているが、これはそのまま私たちの社会でも起きているんだよね。

限界を知ることは辛いけど、それは人の重要な防衛手段。
時にはジャンプもいいけれど、すり足の方が有効度は高い。
信長だって、桶狭間以外は全部すり足。

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