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やりきれない思い

Q.
内田樹さんの「ひとりでは生きられないのも芸のうち」を読みました。
「人間は自分が欲するものを他人から与えられることでしか手にいれることができない」とのことでした。
そして、「その人がいなくては生きてゆけない人間の数の多さこそが成熟の指標になる」とのことでした。
この指摘に、今まで単純に自立と依存ということで考えて、自立の方が断然良いと思って生きてきた今までの自分には、こうゆう考えもあるのだという驚きました。
でも、よくよく考えてみると内田さんの言っていることって当たり前のことだったなと思います。当たり前のことってどうして忘れ去られてしまうのでしょうか?

私は、国家資格をもっていますが、仕事上の組織に属する人間です。最近、今の組織から抜ける人が多く、私もその環境の悪さに嫌気がさし、辞めることを考えていました。
気になることとしては、いくつかのわだかまりです。
その一つとして、自分は自分のことだけを考えて、組織のことをあまり考えてこなかったのではという思いです。
私は、自分で決めてその責任を背負って猪突猛進型(今ではその気力はないですが)に突っ走ってきたつもりでいました。
その時は皆のためにとは思っていましたが、もしかしたら自分自身を欺いていたのかもしれません。
少なくとも組織の一部の人からは自己中心的としか思われていなかった節があります。
今まで踏ん張ってなんとかやってきましたが、今回は今まで通りの踏ん張りが効かなくなったので“逃げる”という選択肢も大切だとも思います。
しかし、ここを別の形式で踏ん張って通過できれば何かを得られるのではないか、自分を変える大切なイニシエーションになるのではないかという気もしています。
そのせいか今までまわってこなかった(一度拒んだ事もある)管理職がまわってきました。イニシエーションなんか関係ないとやってきた人間が、今更こんなことを感じるなんて不思議な気もします。
拝金主義、成功ブーム、個々の力を磨くこと、自己責任やそういった意味での個人主義から“反転”が始まっているように感じています。
そのブームの渦中にいるとそれが永遠の法則かのように思ってしまっていたのですね。
もう少し悩みつつ、このなんともやりきれない気持ちと付き合ってみます。
もしお言葉をいただけたら幸いです。

A.
ご質問ありがとうございます。

『ひとりでは生きられないのも芸のうち』とは!!
いい題名ですね。

「人間は自分が欲するものを他人から与えられることでしか手にいれることができない」「その人がいなくては生きてゆけない人間の数の多さこそが成熟の指標になる」

このテーマは、この間終了した『仮面ライダー電王』がドラマの半分経過した頃からテーマにしたものであり、多くの哲学者が発見したことであり、レヴィ=ストロースがそれにトドメを打ったことですね。

さて、「もしお言葉をいただけたら幸いです」というご依頼、ありがたいことです。
なんと言っても、「このなんともやりきれない気持ち」をお持ちの方とこうしてコミュニケーションを取らせていただけるというのがうれしいです。

最近、困ったことは、「このなんともやりきれない気持ち」というのを持ち合わせていない単純バカが多いことです。物事を非常に単純な因果モデルに変換して、人生を歩く。それはとても楽なことでしょうが、あまり人間的と思えない。少なくとも、私はそういう方とはあまりコミュニケーションはしたくありません。

先日も、ITでプチ成功した若者が当社にやってきて、人の価値観を自分の価値観のように語られてお帰りになりました。
きっと、この人は、こうして偉そうに人に語らないと生きていけない。ということは、承認する人が少ない。つまり、未熟だ・・ということなんですが、自分の存在を、他人から与えられた単純公式でしか語れない・・。寂しいことです。
こういう人にも、「このなんともやりきれない気持ち」を語ってもらえたら、お互い楽しいコミュニケーションができるんですけど・・。

コミュニケーションとは難しいものです。
「自分で決めてその責任を背負って猪突猛進型に突っ走ってきた」人が、案外、苦手なのもコミュニケーションです。

きっと、Sさんは、その時々で、やるべきことを精一杯おやりになってきたことと思います。
ただ、コミュニケーションのスキルが少し足りなかった。ですから、「少なくとも組織の一部の人からは自己中心的としか思われ」ということが起こりますが、それは、ご自身が悪いのではなく、単に少しスキルがなかったということでしかありません。つまり、この点でご自身を責める必要はありません。

もちろん、「自分は自分のことだけを考えて、組織のことをあまり考えてこなかったのでは」という点もそうです。
利己的感情の総和が組織の発展になるのが当たり前であって、組織員が個人の利己的感情を否定したらカルトになってしまいます。ですから、この点でもご自身を責める必要はありません。

・・・・・・、何となく書き始めてしまいましたが、こんな感じでミトコンドリア的反応を続けたいと思います。

私は自分で勝手なことをやっている男ですが、「踏ん張りVS逃げる」というテーマと毎日戦っているところがあります。究極の『エイリアンVSプレデター』ですね(映画見てないけど・・)。

実は、今は踏ん張っている最中なんですが、逃げたいですね。でも、逃げられない・・。踏ん張りたいんではなくて、踏ん張るしかない・・という感じです。
でも、いつもこんな感じですから、「仕方がないな・・」と思っています。

そんな男が感じている発達課題は、「捨てること」です。
きっと、それがイニシエイションです。

イニシエイションというのは基本的に喪失ですよね。
何かを差し出して、何かを得る。それが基本です。

供物は何か?
ここが重要です。

だから、案外、「“逃げる”という選択肢も大切だとも思います」ってところに意味があるかも?
「ここを別の形式で踏ん張って通過できれば何かを得られるのではないか」というのはイニシエイションではない可能性がありますよ!
ここは、フラフラと「このなんともやりきれない気持ち」を持ちつつ再考してみましょう。

「拝金主義、成功ブーム、個々の力を磨くこと、自己責任やそういった意味での個人主義から“反転”が始まっているように感じています。そのブームの渦中にいるとそれが永遠の法則かのように思ってしまっていたのです」というお話。その通りだと思います。

イデオロギーは必ず賞味期限を失います。
マルクス主義もそうして賞味期限を過ぎました。

私たちのような小者は、軸足を一つのイデオロギーに置いてはいけません。
いつも複数のイデオロギーに足をのせて、そのイデオロギーからちょっとずつ成果をいただくのがいいですよね。

大衆は、イデオロギーが好きです。
しかし、イデオロギー離れも早い。
滅び行く者は、イデオロギーにしがみつきます。「あさま山荘事件」はイデオロギーにしがみついた人たちの悲劇の話でした。

次の転換は、自己愛の強い人たちを束で葬って終わります。なぜなら、歴史はいつもそうだったから・・(ホリエモンは一人自爆。道連れをやりませんでした。したがって、ゲームは続いています)。

その日は近い。私もそう思います。
もう軸足は変えなくてはいけません。

しかし、どんな時代になっても、私も「自立の方が断然良い」と思います。
ただし、自立して生きる人間には、一つの“たしなみ”が必要です。

それが、
「人間は自分が欲するものを他人から与えられることでしか手にいれることができない」であり、
「その人がいなくては生きてゆけない人間の数の多さこそが成熟の指標になる」
でしょう。

ここに気づかない勘違いの自立は、見ていてかっこ悪いですよね。

まぁ、当たり前のこと。しかし、この「当たり前」が当たり前にわかったら、どんなに人間いいでしょう。
しかし、世の中には雑音が多すぎます。そんなに簡単には「当たり前」に気づけません。
でも、その雑音があるから、「当たり前」がわかる。それが雑音の効用です。

・・・・・・ミトコンドリア的反応ですいません。こうした楽しいコミュニケーションは、ミトコンドリア的にと決めています。

お互い、雑音を聞きながら、「当たり前」を見つける旅をしていきましょう。この旅は、結構悪くないですよね。私はおしゃれだと思います。

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