オフィスで、思わず
「たんま!」と言った。
んー、ここでは使えたんだっけ?
そこでスタッフに確認した。
「“たんま”って言葉は通じてる?」
「わかりますよー」の返事。
同時に、
「久しぶりに聞いたなー」
“たんま”は、私たちの地方の方言らしい。
「ちょっと待って!」の意味で使う。
地方人によくあることだけど、この言葉は全国共通であると、私たちは思って育つ。
それが、東京などで、通じない経験を通して方言と知る。
同時に、だんだん使わなくなっていく。
さらに、使わなすぎて、どこで使ったら通じるのかがわからなくなってくる。
だから、さらに使わなくなる・・。
こうして、言葉は滅びるのだろう。
“たんま”の寿命は、私が死ぬ前に尽きるのかもしれない。
言葉はどんどん変わる。
それはいい。
抵抗したって仕方がない。
私たちには本居宣長のマネなどできぬ。
粛々と、言葉の変化に従っていくしかない。
しかし、言葉のニュアンスの微妙さ。
「ちょっと待って!」では表現し切れない“たんま”の微妙さ。
それがなくなっていくというのは、同時に、何かを失っていることでもある。
日本語特有のあいまいさ、ニュアンスは、どんどんなくなる。
英語のような紋切り型、そういうものになっていく。
それは共同体が過去のものになっていく過程の現象なのかも?
企業は今その静かな嵐の中にいる。