月: 2017年3月
【TAROの日記】

2017/03/31(金) 08:55

meet VS find

英語の表現には、素敵なものがたくさんある。それで好きになりかけている(今だに好きではない)。

昨日、ブログに書いた「音楽に出会う」という表現を英語でも”meet music”としたら、”find music”に直されてしまった。んーーー、findだとちょっと違うんだよなー。

“It’s a piece of cake”なんて表現があるのに(ちなみに、「おちゃのこさいさい」って意味です。どっか通じてますよね)、”meet music”がないのはどうなの?

私は、贔屓にしている楽器屋のおじさん@京都に、「岡本さんは、ギター運のある人ですね」と言われたことがある。これは最大の褒め言葉だと思う。この言葉の裏には、楽器に選ばれている・・という気分もあって、正に「出会い」なのだ。

音楽もそうだと思う。私は、子供の頃から流行歌に疎い。全然知らない。同じ日本に住んでいても、世間の誰もが知っていても、知らぬものは知らぬのだ。ただ、自分でも自分のフィルターのチューニングの異様さには気づきつつも、これは私のフィルターだけの問題ではないと思っている。あっちがこっちを嫌っているのだ・・。そうなのだ!

逆に、「どうして、こんな音楽知ってるんですか?」と聞かれることがよくある。しかし、この問いにちゃんと答えられたことはない。だって、あっちが勝手にやってくるのだから。

どう考えたって、”find”じゃないんだよ!

人も道具も芸術も、全部、出会いで、それはこっちが探すだけでは出会えなくて、あっちがわの差配がとてもデカイのだ。だから、音楽を聞くこととは、その音楽に愛されていることだと思う。そして、もっともっと素敵な音楽にたくさん愛されたいって思うのだよ。

追伸

findに「出会う」という意味が隠れている可能性はあって、そこんとこは英語好きではない一般日本人にはわからないし、調べる気もないってとこが問題の可能性もある。その場合はごめんね。

 

【TAROの日記】

2017/03/30(木) 08:54

世界探索

高校2年生の時に、K.Yairiのアコースティック・ギターを買った。当時の田舎の高校生が、どうしてK.Yairiに目をつけたのかは、自分でも謎。今では、有名ブランドだが、当時は田舎の高校生が知るようなブランドではなかった(雑誌の広告さえ、なかったと記憶する)。

自分でも、過去の心の動きはあまり記憶にない。でも、この事実から、当時、私はエレキの音から生の音に回帰をはじめたらしいことがわかる。ただ、ここからは紆余曲折で、本当に自分のやりたい音楽に出会うまでには8年ほどを要する。夜明け前どころか、真夜中の購入だった。

今日、息子が京都へ行く。そして、K.Yairiも一緒に旅立っていく。彼は、エレキではなく生を選んだ。彼がどれくらいギターを演るかはわからない。ある程度弾けるようになり、私同様に演りたい音楽に出会うのかどうか・・?

ただ、アコギを持って西に向かうのは乙だなーとは思う。京都には『プー横丁』がある。数々のライブハウスもある。そして、京都音楽がある。あそこは、数々の革新の地だ。

父は、今、真逆の音楽を楽しんでいる。高校~大学~社会人の時に、大きく左旋回したゆえに、捨てざるをえなかった素敵な音楽に回帰。とても急激な右旋回である。そして、一昨年のライブでは、平山みきの『プールサイドクラッシュ』までやってしまった・・・・・。

さて、彼はどんな音楽を見つけてくるやら。彼の世界探索ははじまったばかりだ。

【TAROの日記】

2017/03/29(水) 08:40

右手の子供が飛び出そうとしている・・・。そう思ってブレーキを踏んだ。通勤の途中で、こういう経験ははじめて。気をつけないといけないなーと思った。同時に、自分の目はまだまだいけるなーとも思った。

最近、目に自信がない。そもそも、パソコンを一日中見ていられないので仕事にならない。執筆の依頼は時々あるけれど、中途半端な答えでお茶を濁している。いつも目に膜が張っている感じがあって、光も眩しい。

半年に一回検診をしているけど、今のところ大丈夫・・と言われるだけ。でも、さすがに仕事に支障をきたしてきたので、来週、東京の目医者で検査予定。

順調に進んでいた新しいセミナーのコンテンツ(膨大)の作業も止まった。パソコンが見れないのだから仕方がない。そして、このブログを書くのも億劫だ。なるべく、キーボードだけ見て打っているけど、まさか画面をまったく見ないというわけにもいかない。朝、ブログを打つと、次に、この文章の英文を裏ページに上げているけど、それなんてもっと億劫。今日は英語レッスンのスカイプも目がショボショボして嫌だった。

老人に向っての準備はいろいろしてきたけど、目のことを忘れていた。目はかなり重要だよなー。今は、来週の検査までフラフラしているしかない。スピードは落ちるけど、淡々とやっているしかないよなー。ちょっとマイッている・・。

【TAROの日記】

2017/03/27(月) 08:56

予測どおりではあるけれど、つまらぬ噂を聞いた。

今年1月31日に、当社は新潟の税理士部門を売った。この件についての考え方などは別のところで書いているのでここでは触れない。感情的な吐露は、このブログでも少し書いた。

でぇ、噂では、笹川という当社の元社長であり税理士が、私を裏切った・・らしいとかなんとかかんとか・・ってことになっていると先週知った。ツマラナイことである。

先々々週、笹川の新しい事務所にケーキを持って遊びに行った。確定申告のど真ん中でバタバタしていたが、みんな楽しそうにしていたので安心した。忙しいのが終わったら旅行に行くとか言っていた。そして、夏のバーベキューを我が家の庭でやるというので、ふるさと納税をたっぷりして旨い肉をたらふく持って来いと命じておいた。

人は、理由がないと落ち着かない。そして、能力の範囲内で陳腐な理由を探す。”裏切る”という表現は、陳腐な表現の中でも実に陳腐なものだ。人って、それほど裏切られるものなんだろうか?

もちろん、私だって裏切られたことはある。でも、たった1回。他にあったとしても小さすぎて覚えていない(いやいや、小さいものもないな・・・)。”裏切り”という表現がスっと出る人は、きっと、たくさん裏切られてきたのかもしれない。でも、おそらくそうではない。そう思い込んでいるだけ・・。人の世は、それほど、安易に裏切りなど起きない。多くは、個人の納得のためでものであり、妄想だ。

人は、どうも暇なようである。しかし、私は忙しい。他人の行動について解説する時間も、つまらぬ物語を創造する時間もない。

そして、暇な時間がないことをうれしく思った。時間があれば、私だって、つまらないことを考えるはずだ。

【TAROの日記】

2017/03/13(月) 09:11

理解とは、どうやってするものなのか?

イギリスかどこかのテレビ・シリーズらしき映像を見せられた。アムンゼンとスコットのお話という事前情報だけは与えられていた。

結論。まったくわからない。後で、聞いたら、ナンセンとアムンゼンが会話しているシーンとかあったらしいが、そんなことは逆立ちしたってわからん。だって、わかったことなんて1つもないんだから。

スコッチらしき若者が、ビリヤードやってる親父に呼ばれたこと以外何もわからなかった。それもビリヤード親父はスコットを怒っていたらしいがそれもまったくわからない。南極行きの命令でもされたのかな?って思っていたくらい。

わかった単語。wait death pole。人の名前2つ、 scotteとamnsen(スペルこれでいいか?)。余程である・・。

これは私がバカなのか、これを課題にした方が悪いのか、そもそも”理解”ということの本質の問題にぶち当たっているのか、それとも上達の過程の必然なのか・・?

1つわかったこと。映像の情報量は膨大だ・・と一般的に言われる。しかし、確かに膨大だろうけど、だから映像さえあればわかるというものでもない。切り口になる言葉がなければ映像なんてまったく見ても理解不能なのだ。人がいることはわかる。どこかの宮廷だということもわかる。でも、それでは何の意味も立ち上がらない。情報量が膨大であろう、意味はゼロ。犬の気分が少しわかる。

音を言葉としてキャッチできないのは、犬やカラスとかわらんのだなーとつくづく思う。

 

【TAROの日記】

2017/03/10(金) 08:46

”ちょっと”

どういうわけか目覚まし時計が1時間早く鳴った。それに気づかず、いつものように起きて、いつものように仕事をしたり、英語の勉強をしたりして早朝を過ごす・・。

途中で、「何か変だなー」とは思うものの、朝が追いかけてくるのを肌で感じながら、せっせと働く。

でも、どういうわけか朝は追いかけてこない雰囲気。「おかしいなー」とテレビをつけたら、まだ5時前。そこで「やったー、儲けた!」と思った自分を笑いながら、ゆっくりお茶を飲むことにする。

そういうわけで、今日は身体中を”得した気分”が満ちている。ちょっと万能感さえある。

人生の喜怒哀楽なんて、こんなことなんだろうなー。”ちょっと”がどっち側に振れるかで心の状況は大きく変わってしまう。

でも、心の中の”ちょっと”も累積するので結構怖い。悪い”ちょっと”は一回一回確実に解消しないとエライ目にあう。それも、悪い方は1回で1貯まるとすると、良い方は、0.3くらいだから、結構、意図して対応していないといけない。

とりあえず、今日はとても仕事が進むだろう。爆進レベルの感じがしている。こういうものは利用し尽くさないとね。

【苦しめTAROお仕事LIVE】

2017/03/09(木) 09:12

ある”回答”

昨日は、臨時の個別相談を一件受けた。相談者は、同業の経営コンサルタント。同業者が同業者に相談するのは変に感じるかもしれないが、当社のお客様には、同業者は案外多い(どこもそうなのかなー?)。

その相談内容はさておいて、相談者にはコンサルタントという職業の職業感を少し考えてもらった。そして、私の持っている”回答”を言って、それを前提に、彼が打った手の良さ、悪さを判断してもらった。

しかし、そこで一番明確になるのは、良し悪しではない。過剰と不足が明確になる。

多くの答えは誰もが知っている(もちろん、新しい戦略構築とか新規ビジネスの立ち上げなどは別)。その知っていることは、いつも空気中に浮遊していて、後は掴むだけ。でも、これを掴むためには、程よいアプローチが必要になる。

しかし、これがとても難しい。とてもとても難しい。そして、その一番難しい所に配慮することなく、世の中は、過剰が闊歩し、不足の叫びがとどまらない。

世の中の多くのコンサルタントと称している人たちには、不安がある。だから、いつも過剰だ。そして、それを受け取る経営者側には、いつもある種の未完了感があり、「もっともっと」と言う。これとても不幸な関係で、もちろん未来は暗い。

昨日の私の”回答”は、彼の長い人生に重要な種になったと思う。おそらく、彼の旅はこれからだ。

 

【TAROの日記】

2017/03/07(火) 08:53

A Hard Snow Gonna Fall

今日は、激しい雪。もう春かな・・って感じていると裏切りの雪が降る・・というのは毎年の恒例。でも、本当に嫌になる。雪国住人の怨嗟であります。

そんなわけで、激しい雪の中を通勤。頭の中では、なぜかディランの『A hard rain gonna fall』が鳴る。

Oh, where have you been, my blue-eyed son?
Oh, where have you been, my darling young one?

私の息子は、なんとか大学入試も終わり、家でボケーとしていて、目は青くない。一体、どこに行くのかね?将来何になるのかね?

Oh, where are  you going, my black-eyed son?
Oh, where are you going, my stupid young one?   ・・・って感じかな?

でぇ、彼のこれからにも

I’ve stumbled on the side of twelve misty mountains,
I’ve walked and I’ve crawled on six crooked highways,
I’ve stepped in the middle of seven sad forests,
I’ve been out in front of a dozen dead oceans,
I’ve been ten thousand miles in the mouth of a graveyard,

ってことを含めたいろんなことが待っているんでしょう(上記5行は原曲のまま)。

今日の雪は、そんな感じの雪に思えた。そして、

And it’s a hard, and it’s a hard, it’s a hard, and it’s a hard,
And it’s a hard snow’s a-gonna fall.             であります。

ディラン22歳の時の作品を、55歳親父はそのまんま現実的に解釈して通勤したというわけね。

ディラン自身は、この曲で原爆のことを歌っていると言われているけど、まー、人生そのものが原爆みたいなもんだよな。

そもそも、ディラン自身は、「激しい雨」を放射能だとする説を否定していたはず。しかし、22歳が書くこの詩が、人生そのものについて書いている・・とするのもどんなものか? 彼は後に、「あの頃の俺は、爺だった・・」みたいなことを歌っているから、そうなのかもしれないけど・・。

でぇ、ハイレハイフレハイレホーだな。

 

【TAROの日記】

2017/03/06(月) 08:49

止めたこと

昨年、英語の勉強をはじめるために、半年くらいかけて止めるものを決めた。なかなか決まらなくて、学習のスタートも大いに遅れた。

でぇ、今。

止めたことの多くが自然に復活。しかし、それでもやれている。それどころか、さらに量が増えている。英語には最低2時間とられているうえに、止めていたことが復活して量も増えている・・・・・・。

?????????

よーく、考えてみたら、朝ごはんを食べなくなった。たかが朝ごはんだが、食べないと30分ほどの時間ができる。これが結構デカイ。30分なれば結構なんでもできてしまう。朝の時間の大きな創造である。さらに、昼ごはんがとてもうまいときている。10分程でガーっと食べているけれど、旨いものは旨い。

残念なのは読書量が強烈に減ったこと。ツマラナイ本が多いことが幸いするとは思わなかった。・・ということは必然的に読書量が減ったということか。

朝ごはんを止めたのは当初は胃がもたれていたから。それでやめてみたら快調になった。こちらは理由が明解で意図的だったわけだけど、読書も理由は明解にあったのだ。

ところで、日常的読書の習慣が消え失せた代わりに、今はスキマ時間を見つけては、大量一気読みをやっている。良い本が少ないので(もちろん、私が良い本を見逃しているだけではありますが・・)、この一気読みが非常に効果的によい。一刀両断にたくさんの本を切り捨てている感じだ・・。

しかし、時々、光る本がある。自然、勢いは止まり、居ても立ってもいられなくなる。知的興奮の瞬間だ。これからの読書はこれでいいのだと思う。55歳の私には読書の習慣などいらないのだ・・。

 

【TAROの日記】

2017/03/03(金) 08:54

追悼、かまやつひろし

かまやつひろし、という名前ですぐに浮かぶのは『四つ葉のクローバー』。 確かAmではじまった曲だったと思う。そして、小学生の私がほぼ弾けないギターをナントカカントカ弾いた初期の曲でもある。

その後、彼の姿をはじめて見た。中学一年生の時。テレビで拓郎と『シンシア』を歌っていた。拓郎の作曲だったと思う。良い曲だと思った。そして、私がフォークというジャンルに触れた最後の時でもあったように記憶する。すでに、この頃はツェッペリンやELPに夢中だった私には、少し違う世界の景色に思えた。

だから、彼の個人名の代表曲『我が良き友よ』という曲はあまり知らない。聞いたことはあるけれど、ずいぶん私のイメージする彼とは違っていた。そこには『四つ葉のクローバー』はなかった。

彼がスパイダースの重要メンバーだとか、いろんなことを知ったのは、社会人になってから。スパイダースの初期作を聞いて驚いたのなんて、最近のことのように思う。

私にとって、かまやつひろしはちょっと不思議な存在だった。それはミッキー・カーチスにも感じるのだけど、私が強烈に音楽に興味を持った超初期に、彼らの名前は購入したレコードにクレジットされていた。そして、名前だけが私の中で独り歩き。よくわからないけど、私の中ですごい人と刻印された。

スパイダースの初期に接することができなかった私は、彼の聞き手とは言えない。でも、やっぱり彼は特別な人だ。そして、『四つ葉のクローバー』も。

単純な曲である。1970年代初期の匂いプンプン。今日は酒飲みながら、何十年ぶりに歌ってみよう(おそらく、そのまま懐メロ大会だな・・)。

 

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