■2015年3月10日 第496号

目次
  1. TAROの独り言
  2. コブラツイストは、ツボに効く
    ・・・物語について、結論を書く
  3. まーけ塾レポート
    ・・・8.レゴの革新力
  4. Q&A
    ・・・時間をうまく使うコツ
  5. しょせん人の言葉  しかし、気になる言葉
    ・・・『ポール・ヴァレリー』
  6. 砂漠の中から本を探す
    ・・・『セックスと恋愛の経済学』
  7. 構造で映画を見る。時々、いいかげんに映画を見る。
    ・・・『はじまりのうた』
  8. TAROの迷い言
 
 

■物語について、結論を書く

村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』で披露されているカフカのエピソードが面白い。

カフカが恋人と一緒に散歩していると、公園で小さな女の子が泣いてる。
どうしたのかを訊くと、人形が無くなっちゃったという。

それでカフカはその子のために人形からの手紙を書いてやるわけです。本物の手紙のフリをして。

「私は、いつも同じ家族の中で暮らしていると退屈なので、旅行に出ました。でも、あなたのことは好きだから、手紙は毎日書きます」みたいなことを。

それで実際に彼は、その子のために一生懸命毎日偽の手紙を書くんです。
「今日はこんなことをして、こんな人と知り合って、こうなって」と3週間くらいずぅーっと書いていって、子供はそれによってだんだん癒やされていく。

最後に、人形はとある青年と知り合って、結婚しちゃいます。
「だから、もうあなたにお会いすることはできませんが、あなたのことは一生忘れません」っていうのが最後の手紙になっている。

それで女の子もすとんと納得するわけです。

私は幼稚園の時に、母から言われた。
「サンタクロースなんて、いるわけないでしょ!」
子供にとって、親は絶対。だから、私は「まー、そんなものか・・」と理解し、サンタクロースはウルトラマンやバラモンのような架空のキャラクターとすぐに理解した。

しかし、幼稚園に行くと、サンタクロースからプレゼントをもらった子供が多数。
私は幼な心に混乱した。幼稚園の同級生が共有している“物語”の前で、私はまったく身動きがとれなくなった。幸い、忘れっぽい性格だったので、すぐにそんなことは忘れてしまったようで、混乱は続かなかった。そして、子供の私には母が絶対なので、同級生たちのサンタクロース物語も架空のものと理解していった。もちろん、同級生たちも、架空の物語を楽しんでいるだけだと思っていた。

ところが、その物語を子供たちにインストールした後の我が家の様子を見て、それが間違いだったと知った。
我が家の子供たちは、早い子でも小学校6年生までサンタクロースを信じていたし、遅い子にいたっては中学生になっても信じていた。
単に、クリスマスプレゼントがもらえないオカモト君とプレゼントがもらえる同級生のお話ではなかったのだ。

物語は強力だ・・・。

なぜ強力か?

それは私たちの感情(無意識)に直接フックするからである。
だから、カフカの物語は、子供をだんだん癒していった。

しかし、癒やす効果ばかりではないのはもちろんだ。
昨年の8月28日のブログで、上場という物語をエサにした詐欺にあった人の話を肴にしたが、一度感情にフックしてしまうと、「あれ、変だな?」と思うことが散見されても、最早、物語から逃れることは容易ではない。

物語が宗教や詐欺、一部のマーケティング、投資話などで利用されるのはそのためだ。
ヒトラーや連合赤軍が物語を使った理由もそこにある。そして、自身も自分の作った物語に絡め取られていった。

物語の効用はいろいろあるが、最大の効用は、カフカが子供にもたらしたもの・・。やっぱり、癒やしだ。

病気の人が癒やされることはいい。
それで元気になるのだから、薬だとも言える。
セラピーや宗教はそのためにある。

実は、私は新興宗教に否定的ではない。
必要悪だと思っている。
生きていく上で、そうしたものが必要な人はいるのだ。
また、家族に新興宗教が必要な人が居たとすれば、周りが協力して入信させてしまうのも手だと思っている。
困った身内に振り回されて、周りがエネルギー消耗をするよりも、マシだと思うのだ(半分冗談ですよ)。
今村昌平の『にっぽん昆虫記』は、生きていくことに困難を感じる人にとっての新興宗教の位置づけを、話の中に小さなエピソードを一つ用意して描いている。

では、健康度の高い人に、物語は必要ないのだろうか?

いらない・・。
そう断言したい。

しかし、それはできない。
やっぱり、人間は弱い。

健康度が高そうに見えても、人間なんてみんな病気なのだ。
だから、物語は必要だ。
人は、弱いがために、空想が必要で、その空想があるから生きていける。

しかし、物語を選ぶことは、とても危険なことだ。
元々が、病気を癒すためのツールだから、あまり強烈なものは副作用がある。
薬と同じなのだ。

もちろん、同じ薬でも副作用が出る人もいれば、出ない人もいる。
誰もが同じ物語に振り回されて、同じ結果が出るわけではない。
しかし、それでも、物語は慎重に選ぶべきなのは当然なことだ。

1950年代後半~1970年代前半には、先進国の多くの若者が、「大きな物語」に踊った。
その「大きな物語」を軸に、学園紛争やストライキなどが多発した。
多くの若者が、「革命の時代」を消費した。

しかし、ノンポリもいた。
逆に、連合赤軍もいた。
北朝鮮に逃走したり、ゴラン高原まで戦いに行った者もいた。

強力な時代の物語に対しても、人の反応は様々だったわけだ。
結局、物語にのめり込むのは、病気の人と現状に大きな不満を持つ者だ。
別に、理想主義者が社会的運動に一生懸命になるわけではない。

しかしながら、そんな「イスラム国」の義勇兵を私たちは批判できるかというと微妙だ。
私たちも、何かの物語を選択している。
そして、生きている。

他人が投げかけた物語に反応しないにしても自分の投げかけた物語に反応している。
しょせん、物語を選ぶか選ばないかなんて、他者の投げる物語VS私の物語の“てんびん”でしかない。
さらに、私の物語も、しょせん、ジラールの言う欲望の三角形からは逃れられない。※ジラールの欲望の三角形を知らない方こちら

では、どうしたらいいのだろうか?

少々矛盾したもの言いになるけれど、答えは簡単だ。

良い物語を選べばいい。

では、良い物語とはなんだろうか?

ジャンプをしない物語である。
ヒーローもなにも登場しないし、ウルトラCもない物語であり、昨年、錦織圭くんが経験した物語だ。

では、その物語の内容はどう書かれているか?

できないこと、不具合なこと・・がある場合には、一つ前に戻る。

んーーーーーーー、こんなのを物語と言うのかよ!という声がたくさん聞こえてきそうだ・・。

しかし、この退屈なことは、物語だ。
「一つ前に戻って、クリアーすると、そこに想像以上の物語が待っている」
という物語だ。

そして、「物語を選ぶものではなく、物語から私たちが選ばれる」という物語だ。

私たちが飛びつくレベルの物語は、欲望の三角形から逃れられない。
しかし、私たちを選ぶ想像以上の物語は、今の段階の私たちにはまったく推測が不能だ。

だから、その物語に選ばれると誰もがつぶやく。
「夢みたいだ・・・・・」

その夢は、日記に書いてもやってこない。
一つ前に戻ればいいのだ。

この経験則(物語)を知っている者と知らない者との差は、今も確実についている。
差は開くばかりだ。

そして、この物語を持っている者は毎日癒され、毎日未来に希望を持っている。
こんな当たり前のことが、近道願望の人たちにはわからない。それは、ありがたいことだ。だから、競争のレベルは低くて済んでいるのだから・・。

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