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『実践のためのドラッカー解読シリーズ』

目覚しい業績をあげても、
あとには燃え尽きて沈む船体を残しただけでは、
現在と未来のバランスに失敗した
無責任なマネジメントというべきである

(P・F・ドラッカー)

いわゆる経営書とかビジネス誌と言われるものが、
このドラッカーの言葉を念頭に置くことはあまりありません。

すぐに結果が出る。
多くの人々は、それを望みます。
特に、IT技術が盛んな現代は、今まで以上に顕著になってきました。
さらに、多くの企業が「都合の良いところだけ」に資源を集中しています。

確かに、ビジネスの成果は、昔よりも早く「すぐに結果が出る」ようになってきました。
資源の集中もしやすくなりました。
しかし、そうなったからこそ、
今まで以上に、目先の結果だけに捉われてはいけなくなった・・というのが正解だと思います。

そこで、改めまして、ドラッカーです。

はっきり言います。
世の中に競争なんてありません。
特別なこともありません。

これは、ドラッカーを実践すれば、誰でも気づくことです。

ドラッカーを読むのではありません。
実践するのです。

知識といえども行動に転化しない限り、無用の存在だ。

(P・F・ドラッカー)

だから、実務を知らない者のドラッカー解説などでは意味がありません。

全部で7つのシリーズ。全31巻。
膨大です。
ドラッカーの本を軸に展開していますが、関連する他の知見も盛り込んでいますから、
内容的なボリュームもかなりのものがあります。

このCDの内容は「基本中の基本」です。

驚くことに、ビジネスの世界では、基本を身につけていない人たちが大量にいます。
スポーツや楽器の演奏では許されないことですが、
ビジネスではそれがなんとなく成り立ってしまっているのです(もちろん、時間が経てば、退場間違いなしですが・・)。

しかし、このことは私たちにとってありがたいことです。
そのおかげで、競争がないのです。

そして、何も、無競争の世界に、競争を起こそうと思いませんから、
このシリーズを積極的に宣伝する気もありません。
気になった方だけ、静かに扉を開けてみてください。

『実践のためのドラッカー解読シリーズ』(一覧)はこちら

【参考文章】

「モンシロチョウと私たち」(『スモールビジネスのための戦略スケッチ』 2013年2月 第100号より)

【キャベツ畑とモンシロチョウ】

最近は、モンシロチョウさえ見なくなりましたが、
我が家の畑では、まだまだカワイイ姿を見せてくれています。
しかし、畑を営む我が家にとって、モンシロチョウは害虫です。
キャベツ畑やブロッコリー畑に卵を産み付けていくからです。

彼らは、産卵を終えると次に移動します。
そのまま我が家の畑にとどまることはありません。

彼らの戦略は明快です。効率とリスクを天秤にかけているのです。
そして、最も食べ物が多く、育ちやすいキャベツ畑を捨てて旅立っていきます。
それも、遠く遠くへ飛び立っていくのだそうです。

仮に、モンシロチョウがキャベツ畑に最適化してしまったら、食べ物は豊富ですが、
農薬の散布をはじめ人間との戦いになります。
育ちやすい場所ではありますが、そこにはちゃんと落とし穴があるわけです。
そこで、彼らは子どもたちが餓死してしまうリスクを背負いながらも、
草が小さい野草にも産卵をするのです。

彼らはいつだって、どちらかではなく、どっちもなのです。

そして、この「どっちも」というのは、「保険」と言い換えてもいいでしょう。
特に、キャベツ畑のような場は、とても「依存性」の高い場です。
「依存性」とは、その場所の形態に依存していることを言います。
キャベツ畑で言うと、仮に農薬がまかれたら全滅です。
地震などと同じように、生死が個体の優劣では決まるのではなく、
その場の存在の有無が、100%その場に依存してしまうわけです。

そこで、こうした「依存性」の高い場所に卵を産むという戦術の「保険」として、
「依存性」の低い野草にも卵を産みつけるわけです。
これが、モンシロチョウの長距離移動の正体です。

【キャベツ畑と私たち】

こうしたモンシロチョウの行動を見ると、私たち人間の行動の脆弱性が
とても大きく明らかになります。
私たち人間は、キャベツ畑にだけ卵を産むことを好みます。
そして、次のように言います。

「最適化」

さらに、調子に乗って、こうも言います。

「効率化」

そして、「最適化」し、「効率化」した人間は、豊富な食べ物を手に入れ、いい気になります。
最適で効率的な場所ではありますが、そこにはちゃんと落とし穴があります。
しかし、それを見ようともしません。
モンシロチョウのようにリスクを背負いながらも、
草が小さい野草にも産卵をするようなことはないのです。

私たちは、「効率化」の名のもとに、いつもムダを省くことに一生懸命。
そして、どっちもではなく、どちらかなのです。

「効率化」なんて、何のショックも起きないという非現実世界を想定しているだけなのですが、
世間では「素晴らしい!!」と絶賛します。
自らの立つ場の「依存性」について何も考えず、
効率の悪いものは悪と決めつけてしまっています。

「どっちも」という「保険」を払うことなんて考えることもなく、「依存性」に身を晒し、
そんな事実にも気づかず、自分の能力が凄いと勘違いしているわけです。
以前、このニュースレターで「必要条件」と表現したことを、もっと本質的に言うと
「依存性」という表現になるわけです。

【依存性とノウハウ】

1998年に、マイルズ・シェイバーが論文を発表して以後、
世の中のノウハウや手法の効果の評価は超過大に評価されていることが明らかになっています。

ビジネス書に掲載されているノウハウを使ってうまくいったという事例は、別に、
ノウハウでうまくいっているわけではなく、たまたまそれ以外の多くの要因なども絡んで
うまくいっただけのものがほとんどです。

このことは、私たちは経験上知っており、私自身もみなさんに、
昔から口を酸っぱくして言ってきているところです。
それをシェイバーという学者が回帰分析により明らかにしたわけですが、
素人の私が偉そうに言い切っちゃいますが、シェイバーの研究も全然甘いと思います。

本来、彼は、「依存性」と企業の業績の関連性を明らかにするべきだったと思います。
・・といっても、私たちのように現場でいろいろ経験している者と学者では、
学者の方が遅れていて当然ですから、ノウハウの過大評価を明らかにしただけでも、
シェイバーの研究には意味があったと言ってもいいでしょう。

私たちは、成果を上げた時、キャベツ畑にいることを承知することなく、
ノウハウなどでうまくいったと思っているわけです。
そして、そこで満足していると、そのうち農薬が撒かれて全滅。
その時、はじめて「依存性」に気づくのです。
私たちは、モンシロチョウよりも絶滅危惧種に近いのです・・。

【保険の割合】

キャベツ畑をインターネットと置き換えてみましょう。
最早、誰もが儲かる場ではないインターネットですが、それでも初期参入者を中心に
今でもインターネットに大きく依存する企業は中小企業の中では多いと思いますし、
そのインターネットの中の「楽天」や「yahoo!」、「アマゾン」に依存する企業も多いでしょう。

絶滅危惧種に近い私たちは、「依存性」の高い市場を見つけると、
それにべったりとなって、さらに「依存性」を高めてしまいます。
非常に危うい状況にあるのです。

そして、くどいですが、その危うい状況に「効率」という名前をつけている・・。
恐ろしいことです。

なお、逆に、リアル市場でうまくやっている人で、インターネットに偏見を持ち、
まったく参入しない例がありますが、これも同様に論外であることは言うまでもありません。

そして、今、日本という市場に農薬散布がはじまってしまいました。
ですから、私たちが今、念頭に置くべきことは、利益率などの効率性指標の相対化です。
最早、効率化の指標は絶対指標ではないのです。
ここに気づいたものが次の時代に生き残っていくのです。
ですから、マーケティングの世界でも、皮肉なことに
効率性が相対化される時代が来たと私は見ています・・・・・・・。

さて、この話をもとに、自社の「依存性」を明らかにしてみてください。
そして、保険が足りないと感じるならば、
積極的に「保険」をかけるべき状況にあると考えてください。

ただし、ドラッカーは、「必要条件を見つけることは必ずしも容易ではない」と言いました。
当事者が「依存性」に気づくのは大変な作業ですが、必ずやっておいてください。

最後に、ドラッカーの言葉をもう一つ引用しておきます。

意思決定において満たすべき必要条件を理解しておくことは、
最も危険な決定、すなわち都合の悪いことが起こらなければうまくいくという
種類の決定を識別するためにも必要である。

(P・F・ドラッカー)

「“瞬間”の把握を(余計なお世話かな?)」

(『週刊 岡本吏郎』2011年8月9日 第304号より)

中島哲也監督の『告白』の
水溜まりのシーン。

カーリー・ジラフの曲『Peculiarities』に乗り
美しいシーンが展開する。

このシーンを見ていて、
私が浮かんだ言葉は、ドラッカーの言葉だった。(見てない人は絶対見て!!)

「映画を見ていて、ドラッカーの言葉なんて味気ないね」と言うなかれ、
ドラッカーの言葉は、こんな感じである。

水溜まりは好きである。

この年になっても好きである。

じゃぶじゃぶいう感触がたまらない。

(P・F・ドラッカー)

1979年。
ドラッカー70歳のお言葉。

オカモト個人が、ドラッカーを知るのは、1年後。
このお言葉を知るのは、11年後のことであった。

この言葉の前後のドラッカーの文章(訳だけど)が美しい。
とても映像的なのだ。

中島監督の映像は、それを現実に見せてくれたという気分が私にはある。

では、そのドラッカーの文章をそのまま転載してしまおう。
そうしないと、次の話が展開不能なので、お許しを・・。

ところが、ようやく集合地近くの市役所前の広場にさしかかったとき、
ちょうど私の進路に水溜まりが縦に待ち構えているのが見えた。
水溜まりは好きである。
この年になっても好きである。
じゃぶじゃぶいう感触がたまらない。
しかも、その日の水溜まりは、
いつもならばわざわざ入りたくなるような水溜まりだった。

しかし、私が選んだ水溜まりではなかった。
後に続く行進によって強制された水溜まりだった。
私は進路を変えようとした。
だが後ろのざっくざっくという大群の足音、物理的な圧力が私を圧倒した。
私は水溜まりを通り抜けさせられた。
そのとき私は、真後ろにいた例の女子医学生に無言で赤旗を渡し、
隊列を離れた。家へは二時間近くかかった。
その間ひっきりなしにデモ行進とすれ違った。
淋しくも感じ、隊列に戻りたくもあった。
だが同時に浮き浮きもした。
家に着いたとき、早い帰宅をいぶかった母が「具合でも悪いの」と聞いた。

「最高だよ。僕のいる所ではないってわかったんだ」と答えた。
十一月のあの寒い日にわかったことは、自分は傍観者だということだった。

(『傍観者の時代』[1979年]より)

ドラッカーにとっての“瞬間”。
その記述が、これだと思う。

さて、このドラッカーの“瞬間”の経験と同じようなものは
誰にでもあるのではないだろうか。

私にはある。
その場面は、小学校5年生になったばかりの頃の学校の屋上。

単に、クラスで集まって列を作っているシーンだけれど、
その瞬間に、私の頭に言葉がふってきた。
「世界は自由だ」

ドラッカーのように、
「自分は傍観者だということだった」というように言語化はできないけれど、
“瞬間”は今でも浮かぶ。

しかし、その“瞬間”は、日常の中で忘れてしまった。
それを、このドラッカーの文章は思い出させてくれた。

私は、このドラッカーの文章を読み、
自分の“瞬間”を思い出してから4年後に会社を辞めた。

今でも思う。

あの瞬間は何だったのか?

解釈はいろいろできると思うが、今の私の解釈は、
「あの瞬間に、私のアイデンティティーの確立の戦いがはじまったのだ・・」というものだ。

そして、その戦いは、確立と混乱の戦いで、
時には、自分のアイデンティティの混乱も経験しながら、いつのまにか確立した。
それは泥縄だけど、落ち着くところに落ち着いた。

そして、その確立の戦いは、
あの“瞬間”に得た何かの体現だったと後付けすることになった。

だから、あの“瞬間”は、人によっては「啓示」と呼ぶのかもしれない。

さて、今回の私は、余計なお世話な気分を全開にしている。
そして、この文章を書いている。

“瞬間”を忘れてしまっている人たちへ。
それぞれの“瞬間”を思い出そう。
それは、人それぞれなので、いつのことかはわからない。

でも、とても素敵で、絵画的な瞬間だ。

恐らく、人生は、あの“瞬間”の体現の旅なのだ。