『私の財産告白』 - 解説 -
世の中では、いろいろな成功者の経験が活字になって残っている。
本田宗一郎や松下幸之助の伝記などはそういったものの代表例だろう。
そして、後世の我々は自らも本田宗一郎や松下幸之助の人生を参考にしようと、
そういった本を読む。
最近では、過去の偉人に加えて、早期に上場を果たした若手経営者の成功物語なども
広く知ることができる時代だから、参考にできるものは多い。
しかし、これらの成功物語には根本的な欠点がある。
それは、彼らの生き様は「特殊解」だということだ。
世の中には、「一般解」と「特殊解」がある。
「一般解」は世間一般に通用する。
そして「特殊解」は、応用問題の解答として優れている。
しかし、「特殊解」は万人には当てはまることはない。
だから「特殊解」は役に立たない、と言う気はもちろんない。
当然、応用問題の「特殊解」として、実践的に利用できるものだと思っている。
現に、私もいくつかの危機を先人の経験を参考に乗り越えてきたことがある。
したがって、「特殊解」とは言うものの、
その中には、普遍的なものも多く含まれていると思っている。
本多静六氏の『私の財産告白』は、多くの成功物語とは異なる。
そこには、「特殊解」はない。
全編で「一般解」が貫き通されている。
最近は「一般解」の人気がない。
大学でもハーバード大学型のケーススタディの勉強が主流だ。
内田樹さんは、そのことに意義を唱えていらっしゃるが、私も内田さんの意見に賛成だ。
ビジネスの世界でも、ノウハウや具体的な事例という「特殊解」が歓迎されて、
抽象的な話や「一般解」は人気がない。
確かに、「理念が大事だ!」「戦略が重要だ」と叫ぶばかりでノウハウを知らないのでは困る。
しかし、ノウハウや具体的な事例とは基本的に過去のものだ。
歴史を学ぶことが重要なように、過去のことを知っておくことは大変有効だが、
それらが過去のものだという事実は頭に置いておかなくてはならない。
これに対して、「一般解」は応用がきく。
そして、現実の中では「一般解」を応用したオリジナルが最も力を持つ。
しかし、三品和広さんが言うように、「一般解と特殊解の間の距離は意外に大きい」。
また、「一般解を知っていても、特殊解はそう簡単に視界に入ってくるものではない」。
そのため、「一般解」は大変重要なもののはずなのだが、
多くのビジネスマンに無視され世の中では「特殊解」に振り回されることが
多くなってしまっている。
本多静六が『私の財産告白』で展開している「一般解」は、私たち現代人にとって
痛烈なパンチでもある。
本多静六が語る「一般解」を聞いて、「これは目から鱗だ」と言う人はいないはずだ。
そう、誰もがわかっている、誰もが知っているごく当たり前のことしか本多静六は語っていない。
しかし、だからこそ、これが痛烈なパンチなのだ。
今回、この解説を書かせていただくにあたり、
初めて昭和二十五年に出版されたオリジナルの『私の財産告白』を読ませていただいた。
実は、このオリジナルを読ませていただく一ヵ月前に、
私は『お金の現実』(ダイヤモンド社)という本を書かせていただいている。
この本は、私個人のお金雑記というコンセプトで、七つの視点からお金について書いたものだ。
そして、『お金の現実』の一部でも本多静六や安田善次郎のことを書いている。
また、同時に自費出版した『裏・お金の現実』という本では、本多静六型蓄財法の対極として、
伝説の相場師・是川銀蔵のことを書いている。
『お金の現実』では、安田、本多をを典型とする「一般解」を扱い、
『裏・お金の現実』という本では是川を典型とする「特殊解」を扱ったつもりだ。
つまり、二冊の本で「一般解」と「特殊解」をそれぞれに扱い、
お金に対するアプローチについて考えてみたのだ。
ところが、今回、オリジナルの『私の財産告白』を読んで驚いた。
本多静六自身が、後半の「私の体験社会学」で
日産コンツェルンの鮎川義介との対比を行っているではないか。
鮎川義介(1880 - 1967)といえば、重工業を中心に事業展開をした当時のベンチャー企業家。
本多静六的人生とは対極の人生である。
その対極的な人生を歩む鮎川義介とのエピソードを描きながら、自身の貯蓄法の確認をしていく。
この部分が書かれた「私の体験社会学」については、
今回オリジナルを読ませていただいたことで初めてその存在を知ったわけだが、
私には最も新鮮な部分だった。
蛇足だが、私の本では本多、安田の「一般解」と鮎川、是川の「特殊解」の対比から
普遍的な解を得る試みをしている。
その試みの結果をここで披露すると、「どちらも変わらない」ということになる。
何が変わらないかと言えば、努力に対する姿勢と量においては何も変わらないのだ。
何も変わらないけれど、二つの解には大きな違いがある。
繰り返しになるが、「一般解」のほうは誰にでも実行可能だ。
しかし、だからと言って、「一般解」が絶対正しいと言う気はない。
たとえば、天下の鮎川義介が「一般解」の人生を歩むのは寂しいことだ。
鮎川が「一般解」の人生を歩めば、それは人生の損失だろう。
月並みな答えになってしまうが、個人の特性にしたがった人生が良いに決まっている。
それでも、「一般解」のほうが誰にでも使える解であることには変わりはない。
それに、努力の姿勢と量ではどちらも変わらないのだ。
多くの人は、奇跡を求めて「特殊解」を探す。
しかし、そもそも「特殊解」は探すものではない。「特殊解」はオリジナルなものだ。
「特殊解」があって、鮎川義介があるのではなく、
鮎川義介があって鮎川義介の「特殊解」があるのだ。
それに対して、「一般解」は逆だ。
本多静六や安田善次郎の人生は、「一般解」を実行した結果の人生だ。
ところで、読書とは基本的に「共感」という感情を軸に行われる知的作業だ。
たとえ知識を得ることを目的にした読書でも、既存知識や共感といったトリガーがなければ、
読書という行為を成り立たない。
したがって、一冊の本を読んだあとに、私たちが味わう読後感とは、煎じ詰めれば、
共感できたか共感できなかったかという感情が根元にあるといってよい。
繰り返しになるが、本多静六の語る「一般解」を知らない人はいない。
誰だって、稼いだお金を使わなければお金は貯まることぐらいは知っている。
こういうことを知らない人間なんていないのだ。
しかし、その知っている人間はまっぷたつに別れる。
その「一般解」に共感する人と「こんなことぐらいわかっている」と言う人に、だ。
世の中には誰もが勝てる勝負がある。
しかし、ほとんどの人はそういう勝負には参加をしない。
本多静六という人が人生で行った勝負は、
その「誰も勝てるが、ほとんどの人がしない勝負」だった。
世の中には、「知識だけの人」が多い。
この本は、きっと「知識だけの人」を見破るリトマス試験紙なのだ。