【TAROの日記】

2014/03/11(火) 08:27

ご自由にテクスト

あえてテクストと表現しつつ、読み手がテクストをどう読むかは読み手の自由である・・とバルトが言って、「そりゃーもっともだ」とみんなも理解して相当の年月が経っている。

ところが、たまにテレビを見てみると、テクストの押し付けに辟易する。
ちょうど東北の震災から3年というのもあり、震災関連の映像が多く流れている。その映像にに改めて驚愕しつつも、そこで語られるテクストと後付バイアスは何のだろうか?

震災のテクストはまだいい。
そこには人類が共通しても持つ何かがあるからだ。
しかし、同時に、体験した現場の人とその他大勢との溝は埋まらない。埋まるわけがない。
テレビのテクストは、それを強引に埋めようとしているように感じてしまう。
それは、そもそもの人間のどうしようもなさを見ない、認めないことと言ってもいいだろう。

しかし、そこを認める発信者は少数だと思う。
なぜならば、そこを認めてしまうことは、発信者自身の業の強さに直面することになるはずだからだ。

そして、そのことは読み手自身の問題を素通りしたテクスト論には意味が無いことも表していると思う。
自分だけをカッコにくくってモノを読み解く。世の中、そんなものばかりだが、それがどれだけいろんなことを遠回りさせていることか・・。

ただ、こんなことを書いている私も自分をカッコにくくることはよくやっていると思う。
それも人間だから当然だ。
しかし、だからこそ、そこに意図的でありたいとは思っている。

「ご自由にテクスト」へのコメント(2件)
  1. このテクストに関して、コメントするのは難しいと思っていました。ですが、きちんと考えみたいと思っていました。そしたら今日、たまたま読んでいた本の中に中江藤樹の和歌「好悪しの色に心をとどめねば、柳はみどり、花は紅」(良し悪しを分けなければ、もっとはっきり見えてくるものがあるとの意)が引用されていて、それを読んだ時に、自分自身をカッコにくくって、物事を読み解くことが、物事の解決を遅らせることになると岡本さん言っていることが、感覚として感じられた気がします。

  2. このテクストに関して、コメントするのは難しいと思っていました。ですが、きちんと考えみたいと思っていました。そしたら今日、たまたま読んでいた本の中に中江藤樹の和歌「好悪しの色に心をとどめねば、柳はみどり、花は紅」(良し悪しを分けなければ、もっとはっきり見えてくるものがあるとの意)が引用されていて、それを読んだ時に、自分自身をカッコにくくって、物事を読み解くことが、物事の解決を遅らせることになると岡本さん言っていることが、感覚として感じられた気がします。

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