【TAROの日記】
2008/02/07(木) 05:50
出版社の功罪4
・・・・・・・というようなことをいろいろ考えて、2005年に自費出版をしてみた。
そして、だいたい状況もわかった。
その後、自費出版を続けるつもりだったけれど、そこに頭を使っている時間がなく、頓挫しているけど準備はできているので、そのうちまたやると思う。
出版業界は、暗黒大陸な業界である。
よくあれで・・・と正直思う。
私の友人が某出版社の税務顧問をしているけど、彼から聞く話も一般の会社の常識からは変である。
それは誰もが思うことらしく、自費出版を企画して、それなりに売った私のところには「出版社を作りたいけどどう思う」という話がよく来る。
まぁ、ちょっと業界の事情を知れば、自分がやったら面白くなると誰もが思うようだ。
実は、ここは重要。
装丁のマネやタイトルのマネといったナンセンスを出版業界は「業界には二匹目のドジョウが5匹くらいいる」などといってやっているけど、お外の人間は、全然別のことに気づいているのだ。
確かに、インスタントラーメン同様に「千三つ」の世界と了解はしている。
でもねーと思うのだ。
【TAROの日記】
2008/02/06(水) 05:41
出版社の功罪3
今年、イッセー尾形の相棒である森田雄三さんの本を読んで思った。
あの二人は、一人芝居のために土方でお金を稼いでいた。
森田さんは、それで足を失った。
ムーンライダーズもそうである。
ロックバンドでありながらアグネスチャンのバックをはじたことをスタートに、副業をこなしながらバンドを続ける。
今では、CMや歌謡曲への楽曲提供、プロデュース、アレンジ、スタジオミュージシャンとしてなくてはならない存在。副業の方が間違いなくメインになっている(それでも、今年も新譜を出すそうですね。楽しみにしています。しかし、昨年暮れのライブ二日目には、私は文句が言いたいです)。
そして、バンドは日本で最長寿のバンドながら若者にもファンが多いカルトな存在としてがんばっている。
ちなみに、彼らは過去に売れるチャンスがあった。
しかし、レコード会社の提案をあっさり拒否。
あの時、売れていたら間違いなく今の彼らはないだろう。
さて、このように考えてみると、自分も目先のこと置いておいて、ちゃんと考えなくちゃと思う。
だって、お金のリスクは出版社にあるだろうけど、私たちには名前を失うリスクがあるんだもんね。
(つづく)
【TAROの日記】
2008/02/05(火) 05:33
出版社の功罪2
私の最近の著書『稼ぐ超思考法』における「カリスマコンサルタント」という表示にも著者の意向はない。
当然だが、「こんなことされては困る」と抗議もしている。
それでも、出ちゃったので、無料音声で、そんな可哀想な自分を自虐的にからかったりもしている。
本の装丁も同様で、売れている本に便乗していることに大きく抵抗したが、単にドーナッツを加えられるというだけで終わった。
そして、そうした仕事から生まれる本に対する印象のリスクは著者の方が負うということなのだろう。
しかし、出版には最初から呉越同舟的なところはある。
出版社は1冊でも多く売りたいというのは当たり前のこと。そして、その売りたい思考は、芸能プロダクションと音楽志向の強いミュージシャンの関係と同じように相対立するものだ。
残念ながら、私が個人的に評価する出版社はどこも弱小。
よい本を出しているのだが、そういう出版社の本は横積みされることはマレ。
著者としても、増刷はかからないよりかかった方がいい。
だから、そうした好きな出版社から本を出してみたいと思う気持ちはあるが、だいたいそれは思いだけでなかなか実行までには至らない。
つまり、1冊出すことに傷つく著者も自業自得なのだ。
(つづく)
【TAROの日記】
2008/02/04(月) 05:21
出版社の功罪1
『エコノミスト』1/29号の永江朗さんの連載「出版業界事情」は非常に共感する。
しかし、その話の材料になったのが知人の本のため胸の痛い思いもした。
材料は古市幸雄さんの『朝30分続けなさい!』。
マガジンハウス社からでたベストセラー『1日30分続けなさい!』と装丁がまったく一緒という指摘である。
同じ装丁でも出版社が同じなのであれば了解できるのだが、『朝の・・』の出版社はアスコム。
そして、永江さんはこう書いている。
「アスコムと著者がやったのは、売れた『1日」への便乗である」
実は、私は著者から聞いている。
「あの装丁は、どうも・・・・」というグチをだ。
確かに、アスコムの暴挙を止められなかった著者にも責任があるといえばそれまでだが、現実には著者には出版社を止めることはできないことが多い。
ところが、事情を知らない人は、著者も断罪する。
ここに、著者のリスクが大きくなっていることを実感。
私は、好きに言う方だけど、それでも出版社の暴走は止められないことが多い。
実は、私たちレベルの力のない著者は、1冊出すことに傷ついている。この方が真実の場合が多いと思う。
(つづく)
【TAROの日記】
2008/02/01(金) 05:21
降臨5
さて、このテーマも最後になりました。
最後に残る問題は、「覚悟と準備」です。
「覚悟と準備」は、経験を積むにつれて減ります。
これはどうにもなりません。
修行を積んでいる人は別かもしれませんが、世俗で生きるものには重力です。
ツェッペリンの3人は何かを失い、それを得たようです(あくまでも想像・・)。
この現実に対する対処は何でしょうか?
結局、愚直に、自分の心の中を点検するしかありません。
いつも「覚悟と準備」を確認する。それしかないでしょう。
でも、そこがわかっていれば、大きな失敗はないと断言できます。
こうして、今日も、効率の悪い作業が日常の中で重要な位置を占めることになります。
それは、一つの価値観から見たらナンセンスに見えても意味のあることなのです。このセンスは、ひと潜りしないとわからない。ここが組織における文化の伝播のむずかしさです
組織の全員が、ひと潜りしてくれるといいんですけどね。
そして、そういうことを言っている本人が、さらに深く潜れなくては恥ずかしい話でしかありません。
ツェッペリンの復活の復活のレポートを読んでずいぶんいろいろなことを考えさせられました。
【TAROの日記】
2008/01/31(木) 05:20
降臨4
「・・・自分にとってのツェッペリンが問題なのではなく、ツェッペリンにとって自分がなにであるかが問題なのである。そのことに全員が気付いたとき、本当にツェッペリンは復活したのである。信じられないが、本当にレッド・ツェッペリンは復活したのである」
渋谷陽一氏のツェッペリン復活コンサートのレポートはこの文章で終わります。
この一文は名文です。
この文章には、評論家と言うよりも一人の経営者としての渋谷陽一氏の思いがあるのではないでしょうか?
「自分にとっての”自分の実績”が問題なのではなく、”自分の実績”にとって自分がなにであるかが問題なのである」
と読み替えてみましょう。
人間ある程度生きれば、何らかの実績があります。
そして、今もいろいろな形で戦い続けています。
また、個人の実績の評価と収入は乖離するものです。
収入が多いから実績も高いというものではない。そこも重要です。
ちょっと、構造主義の思考の逆転に似ていますが、自分は従で実績が主と言う思考は、いろいろ考えを広げるきっかけになるような気がしてなりません。
自分が過去に行ってきたコト。そのコトにとって自分はなにであるのか?
この問いはじっくり考えてみたい問いです。
【TAROの日記】
2008/01/30(水) 05:19
降臨3
覚悟と準備で必ず「降臨」するかはわかりません。
渋谷陽一氏は、
「あくまでも彼ら自身がツェッペリンであろうとする覚悟と準備がない限り、ツェッペリンのマジックは”降臨”しないのである」
と書きました。
来るかどうかわからないけど、覚悟と準備(努力と読みかえられますよね!)が必要条件ということですね。
この言葉は重いですよーぉ。
覚悟と準備は、経験が増えるほどに減ります。
減らないように努力はしても、一度何かを得たら人はそこから自由にはなれません。
そういう点で、ツェッペリンの3人は過去の経験でいろいろ失ったんでしょうね。
若いうちに多くのものを得て、その後いろいろ失った。それが必要だったというわけです。
他人事だとカンタンに言えますが、自分に置き換えると失いたくはありません。
そこが問題なんだよなーぁ。
・・・ということで明日に続きます(この方法を今年から実験的にやっていますが、思考の継続は案外苦しいです・・)
【TAROの日記】
2008/01/29(火) 05:19
降臨2
「ツェッペリンは曲に宿り、ツェッペリンはグルーブに宿っているのである。それを導き出すのはメンバーだが、あくまでも彼ら自身がツェッペリンであろうとする覚悟と準備がない限り、ツェッペリンのマジックは”降臨”しないのである。そのことに、ようやく彼らは気付いたのである」
と『ロッキングオン』で渋谷陽一氏は書いています。
「降臨」
いい言葉ですね。
この言葉を読んで、「あ、自分にも”降臨”って昔昔にあったなー(もう、10年以上前です)」と思いました。
そして、「今は、それがない」とも思いました。
凡人でも「降臨」ってあるわけですよね。
ただ、困るのが「降臨」したら、「降臨」した自分が「自分」と思う勘違いです。
それが、ずっーっと続くと思っちゃう。でも、そんなことないんですよねー。
「ジミー・ペイジは作れたはずである。しかし、彼はツェッペリンどころか、そのイミテーションさえ作れなかった・・」
ツェッペリンのギタリストであるジミー・ペイジは、結構早くこのことを思い知っちゃたんですね。良いことです。
それで、「降臨」の概念ができた。・・・と私は思います。
では、続きは明日に・・。
【TAROの日記】
2008/01/28(月) 05:18
降臨1
『ロッキングオン』2月号に掲載された渋谷陽一氏のツェッペリン再結成コンサートのレポートを読みました。
オークションで1000万円をつけたコンサートの内容は期待を裏切らない内容だったようです。
しかし、期待半分不安半分というのがファンの本音だったと思います。
過去に行われたペイジ=プラントのライブでのツェッペリン・ナンバーは、まったくツェッペリンではなかったという評判でしたから仕方がないですね。
そういうリスクの高いコンサートに1000万円を払った人は凄いと思います。
ところが、ファンの不安を裏切り、ツェッペリンは降臨したようです。
んー、うらやましい。
一人の庶民が見ることなんてできませんから、最初から諦めている話ですけど、やっぱりうらやましい・・・・・・・。
1970年代には、サブカルの一つでしかなかった音楽が今では宝石並みになっているわけで、何が価値を上げるかなんて誰もわからないですね。
そういえば、ポリスのマカオ公演を最高の場所で見るツアーが販売されましたが、少しずつこうした宝石も庶民の手の届くなるものにはなっているようです(私も、2月のポリスのコンサートはかなり良い席で見る予定です)。
渋谷陽一氏のコンサートリポートで気になったのは、「降臨」という言葉でした。
(つづく)
【TAROの日記】
2008/01/18(金) 05:11
養老さんのインタビュー4
養老さんはインタビューの中で、「日本のサラリーマンは総じて面白くないですね」と言っています。
こうしたことは、養老さんに限らず多くの人が言うサラリーマンの枕言葉みたいなものですね。
まぁ、組織の論理に従わないといけないところがありますから仕方がないですよね。
ただ、私はサラリーマンの時、誰もがサラリーマンを辞めると思われていたようなので、従っていなかったのかもしれません。
でも、本人はいたって真面目に従っていたつもり。ですから、こういうのは体質の問題かもしれません。
つまり、組織の論理に従う人の受け皿が会社で、そういう器にそうした人たちの力を糾合することで、一人ではできない大きな力が出るという風に考えることもできますし、私はそうだと思っています。
勤めている会社が潰れる可能性が高い時代の今、サラリーマンという選択はリスクだらけ。だから、脱サラの方がリスクは少ないという考えも確かだと思いますが、その考えが普遍的かというと疑問です(まぁ、そういうことを言う人が普遍的にそうだ!と言っているわけではないですけど・・)。
養老さんはサラリーマンに参勤交代を勧めているわけですけど、どうなんでしょう?
それで活力が出るかどうかは別問題かな?だって、逆にのんびりしてしまう可能性の方が大です。
それに田舎は田舎で空論が跋扈する場所ですからねー。
でぇ、そういう考えの方が大手を振ってしまうところがあります。
後、地方の力のある人が補助金を引っ張ってくる所なんて露骨ですしね~。
建設業が多いために、建設業の気分がマジョリティーですから、それになじめないと辛いですしね~。
田舎は田舎で美化されすぎですよ。
私の友人に、自分の故郷を憎んでいる奴がいますが、その気持ちも少しはわかります。
本当は、こういう奴が地方の改革をするといいのかも?
「地元が好き!」なんて言う奴がやることは、何か空虚なものが多いですからね・・。
・・こんなこと書いているとキリがないですね。
日経新聞の養老さんのインタビューを見て、何となく思ったことを書きました。
都会と田舎は、どんなに分ける気がなくても、やっぱりどこかに線があります。
誰が見ても二元的な存在。
でも、地方の美化はウソ。
むしろ、地方の方がダメです。だって、未だに古いイニシアチブと理想論ばかりが目につくんだもの。
そういう点では、都会暮らしに疲れた人や単なる夢想家ではなくて、いきのいい都会人に来て欲しいですよね。確かに、五感を蘇る場の空気はありますから・・。
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