【TAROの日記】

2011/03/31(木) 07:27

日常という幻想

この間、テレビで栗本慎一郎を見た。

昔は、よくテレビに出ていた人だったので、
「あれー」と思った。

知らなかったけど、病気のために、
仕事ができなくなったらしい・・。

凄くパワフルな人だったから、
テレビの彼の姿は痛々しかった。

彼と岸田秀の対談で、
“日常性”についての会話がある。

栗本慎一郎の
「日常性が幻想だということですね」
という問いに、
岸田秀は、
「そうです」
と答える。

その対談の場にいたわけではないけれど、
私は、この対談の場面が好きだった。

そんな場面を若い頃に見て(?)しまったからか、
日常性をどうやって補強するかが、私の興味の一つだった。

おそらく、私が書く文章や本には、
この考えが根底にあると思う。

私は、幻想だからこそ、日常性の補強の必要性を感じた。
そして、それは、わずかな補強で、ある程度可能だと思った。

しかし、やっぱり、日常性は幻想だ。
今回、私たちは、それを思い知った。

でも、私は思う。
それでも、次の日常性は、その前の日常性の中にある。
その前の日常性の中の補強が次を決める。

次の日常性がはじまる。
前の日常性は壊れた。
もうない。
ここに気づいていることが重要だ。

しかし、周辺を眺めると
二手に分かれている。
まだ、壊れた日常を幻想する人は多い(被災地でもないのに・・)。

日本人の文化から、イニシエーションが少なくなってしまったことに
原因があるのかな?

それとも、前の日常性の中に補強がなかったからか?

次の補強がはじまる。

「日常という幻想」へのコメント(0件)
  1. 直後は「モーフィアスから真実をしらされてしまったばかりのネオ」みたいな気分でした。

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