日: 2016年10月27日
【TAROの日記】

2016/10/27(木) 08:35

光が過剰になって、もう何年も経つ。
街の光が山奥にも侵入してきて、そのせいできれいな星空が見えなくなってからどれくらい経つだろうか?

都会の人たちは、昔の星空なんて知らないので、ちょっと山に入って、それなりの星空を見れば感動してくれるけど、あんなものは話にならないくらいにダメである。
そして、日本では、相当な山奥に入っても、昔の星空を見るのは不可能だ。
もしや、街の光がまったく入らない・・なんてところがあったら教えて欲しいけど、ないだろうなー。
飯豊山あたりでも、最早ダメなのではないだろうか?

視界は微妙だ。
我が家は田舎なので、それなりに星空が見えるけれど、見る場所で美しさはまったく違う。
たかが家の光でも、数メートルの違いで、美しさは段違いだ。
そして、我が家の畑の一番奥の所は、星がきれいに見えるポケットスポットになっている。
その特別な空間は、微妙な光の侵入加減の違いでできているようなのだ。

光を過剰にしたのは、私たちの欲求だ。
資本主義はそれに答え、さらに煽った。
なんでも、加減とか強弱というのが大事だけど、資本主義は加減を嫌う。

実は、商売では、加減と強弱はとても重要なファクターだけど、その総体である資本主義はそれを嫌う。
ここが私たちの住む世界の面白い塩梅で、この塩梅が勝敗を決めていると私は思っている。

光の侵入は、資本主義の総体同様に暴力的だが、我家の庭のように、その侵入が少し弱まる場所はある。
資本主義にもそういうところがあって、その場所を見つけると、ずいぶん面白いことになる。
そういうのをブルーオーシャンなどとセンスの悪い言葉で表現する者もいるけど、そういうものとはちょっと違う。
あーいう後付は韓国の学者に好きに喋らせておいて、私たちはそういう言葉を使わないというのがミソなのだ。

光は暴力的だけど、無限ではない。

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