カテゴリー: TAROの日記
【TAROの日記】

2013/05/24(金) 08:24

エベレストと80歳

本人は、偉い。
私が言うまでもない。

ただ、私は、本人が本人の足で登ったことよりも、80歳のおじさんをサポートする人材の豊富さとかに感動する。
どんなに本人が自分の足で登ろうとしても、一流のサポーターがいなくては無理。

80歳。
最近は、そう遠くない未来に見える。
私が80歳のときに、「これやりてー」と言った時に、一流のサポーターが集まることはない。
そりゃ、有名人のおじさんと自分を比べても仕方がないけれど、そんなことを思う。

人はそれぞれに生態系を持ち、その生態系の中心にある。
その生態系に品質があるとすれば、それは中心がすべてを決める。
もちろん、品質は比べられない。
でも、本人が自分の生態系に満足しているかしていないかというのはある。

私は、ずっと自分の生態系に満足して生きられるだろうか?

今はとても満足している。
わがままを続けてよかったと思っている。
おそらく、これからもわがままで、そのわがまま度はさらに上がるはずだ。

最近、縁なきものに無理な遠慮はいらない・・ということを発見した。
昨日書いたベンサムの運用を間違っている若者のおかげである。
よーーくトレースすれば、わからない方がおかしいのに、私は今月に入るまでまったくそれに気づかなかった。バカである。
でも、気づいてしまったのでこっちのもの。私は遠慮なく生態系を広げる。

80歳が見せてくれたものはいろいろある。
でも、そこんところが彼の一番の勲章だと思った。
自分の欲が人に迷惑をかけないどころか、サポートする人々にも満足を与えるというのは素晴らいい。

・・というかそれを欲という。
欲は、長い目で見て人を良くするものだ。
単に人に迷惑をかけ、傷つける欲は、欲とは言わないと思っている。
もちろん、人は人だから、人に迷惑をかけることも傷つけることもある。
ただ、それにはいつも一定の条件があると思っている。

しかし、そういうことを含めて、全てが変数でアメーバで無常だ。
だから、結局はどうでもいいのだとも思う。
80歳のエベレストも今日から過去だ。

【TAROの日記】

2013/05/22(水) 08:26

結構それなりになってびっくりする

今回の長期出張は、それなりに遊びも楽しかった。
ライブは3本行ったし、芝居も見た。

ちなみに、芝居は長塚の新作。今回は、毎度のテーマをよりわかりやすくしたものと理解。でも、私は今までのように、見ている者により考えさせるものの方が好きだ。ここ数年の路線をそのままあのソリッドな感じで突き進んでほしかったなーと思いつつ、次のが楽しみだったりもする。

ところで、バンド遊びもした。三ヶ月ぶりか?
そこで、初心者Aの上達度に驚いた。
こっちがかなわなくなるほどにうまくなったわけではないけれど、この人のギター歴のうちの最初の4年はなんだったのか?と思った。
ここ1年、バンド遊びに、ローディー(笑)として参加してから、改善が急激に進んでいる。
これは、私たちがあーだこうだとライブでアドバイスをしていることが大きい。年数回とはいえ、初心者には良い刺激のはずだ。
そして、演奏も見ている。私たちの演奏などアマチュア下手の典型だけど、それでも生演奏を見せられているというのは大きい。
それに、私たちは下手だろうがなんだろうが、楽器との付き合いは長い。芸もいろいろ持っている。それを見せられば否が応でも無意識は稼働する。

プロがうまくなった理由は、簡単だ。
すごい演奏の近くに常にいたから。これが大きい。
もちろん練習は大事だけど、すごい演奏の近くというのはもっと大事だ。

初心者Aに悲劇があるとすると、理屈はいろいろ知っているけど、演奏がイマイチの我々と付き合っていること。
本当は、理屈なんか知らないけど、良い音を出す奴と付き合うともっと上達は早い。

それでも、私たちのようなカスな環境でも上達する。
まずは、環境を用意することの大事さである・・・・・・・・・・・と思った。
4年間、ヤマハの教室にかようよりも、私たちと遊んだほうがよかったのだから、そう考えていいでしょう。
もちろん、ヤマハで基礎を積んだと考えることもできるが、あーいうところでは、基礎さえ身につかないのだな~というのが1年前の私たちの感想なので、それはない。

長塚には、ストーリーなんて無視して、あの路線に突っ込んでもらいたかった。
毎回見てればそのうちわかる。芝居を見るのだって訓練だと思うのだ。
4年間だめでも、その後わかるようになるのもいる。
ただ長塚新作の場合、天狗党に対する愛が芽生えちゃったというところが、こういう方向になったのだとは思う。
ちなみに、私も見ていて愛が芽生えちゃったし、彼の提起するその後も興味深い

そういえば、初心者Aのアコギで、私の隠していたアコギ偏愛魂も芽生えてしまった。
せっかく、エレキに慣れてきたというのに、またアコギに戻りそうな雰囲気だ。
これって、ヤバイ匂いがする。

ちなみに、同じギターでもエレキとアコギは別の楽器です。
かなり真逆の部分が多く。両方愛すると大変な目に合うようになっています・・。

【TAROの日記】

2013/05/08(水) 08:32

スランプ

インフルエンザ後、スランプが続いた。
周囲の状況は、そんなスランプをよそにいろんなことを頼まれて、「どうすんだよー」という感じ。

通常、スランプは秋と決まっていて、春のスランプははじめて。
これがいけない。秋は日が短くなっていく季節なので、まー寝てれば直る・・と開き直れるけれど、春の雰囲気の中だと、意味なく焦る。
焦ったってどうにもならないのだから、明るい陽気の下で遊んでいればいいはずなのに、どういうことか・・と思いながら、ちょっとジタバタする。

でも、昨日、どうも終了した気配。
何度経験しても嫌なものだ・・。

【TAROの日記】

2013/05/07(火) 08:30

バーチャル

連休は、仕事の合間に、打ち込みをした。畑もやった。

どちらも、一定の行いを淡々と続けるだけの作業。
打ち込みなどは、酒でも飲みながらやっていないとやっていられない。
畑は、逆に、酒を飲んだらやっていられない。ほんの30分も畑をやると、下半身は重くなる。運動はそれなりにしているつもりだけど、ジムなんかで体を動かすことと現場で汗をかくこととは根本的に違うことがわかる。
畑作業から見たら、ジムなんてバーチャルみたいなものだ。

逆に、打ち込みの方は、バンドの演奏をバーチャル化する作業。
この作業は、量が多くなければ、それなりに面白い。
まったく意味のない作業が繋がって全体として立ち上がってくると、なんとも言えない感動がある。
あくまでも推測だけど、アニメーターやゲーム製作者の快感は、これに似ていると思う。
そして、その感覚って家作りとかにもつながっていると思う。

そんな快感もある打ち込み作業だけど、結構大変なうえに、やっぱり生演奏にはかなわない。
私の場合、iPadの『GarageBand』で打ち込んで、マックの『Logic』にデータ移行してから音を作るんだけど、音を作る作業をしていると、何がなんだかわからなくなって途方に暮れる。まったく、私のような多動的人間には向かない。
そして、それだけ苦労するというのに、バーチャルはやっぱりバーチャルだ。

連休のよその景色(いわゆるニュースで見る景色)にも、似たようなものを感じる。
どこにも行かない私の妬みかもしれないけど、何だかみんな同じようなことを続けている。私の打ち込み作業となーーにもかわらないのだ。
考えてみたら、”思い出”というのもバーチャルだもんな~。
「エピソード記憶」に対する付加としての”経験”という要素で見てみると、少しむなしくなってくる。
でも、目の前に酒があれば飲む。それが人間なんだよな・・。

【TAROの日記】

2013/05/02(木) 08:38

明日から連休だけど、あいかわらず関係ない・・

一応、大型連休らしいけれど、普通に働いている。
毎年の話だから、そんなことはどうでもいい。
我が家の家族も連休というのは家でゆっくりするものと思っている。

ただ、そういう気分な私たちはテレビのニュースの画面にいつも違和感を感じている。
この違和感は、いつ頃からのものなのだろう?

子供の頃は、ニュースを見ていないから、この世に、大型連休などというものがあることさえ知らなかった。
ゴールデンウィークという言葉はいつ知ったんだろう?

中学生くらいでは知っていたような気もするけれど、その実態をわかっていたとは思えない。
「あー、GWが楽しみだー」なんて日本語は、就職するまで使ったことはなかったと思う。

結局、私の違和感の元は、子供時代にある。
子供の頃の我が家にはGWなどなかったから、GWにどこかに行くという習慣はもちろんない。
テレビに出ている遊びに行く人たちは、その逆ということか・・。

いずれにしても、特別、私が仕事で忙しいから、どこにも行かないのではない。そういう習慣なのだ。
GWには、たくさん仕事ができる・・というのが私の習慣で、家族も家でのんびりするのが習慣だ。

ところで、GW頃の日本の田舎は最高だ。
残雪と新緑の中で、自分の気持ちが新鮮になっていくのがわかる。
だから、この環境にいて海外に行こうというのはあり得ない。
そういえば、田舎の人でGWに遊びに行く・・という話は聞いたことがないな・・。

いずれにしても、たっぷり仕事が出来る。
書かなきゃいけない本の構成を練るには最高の時間になりそうだ。

あ、そういえば、今度のバンドの集まりまでに、トラックの打ち込みをしなくてはいけない。
こういうのがやれるという点では、やっぱり休みだ。
休みはいい・・。

【TAROの日記】

2013/05/01(水) 08:30

最後の質問

一人の巨人が逝った・・。

彼の最後に、「何か聞いておくことはないか?」と言われた。

こう言われた時、自分の問いとは何か?と思った。
最後の問いが迫られた時、そこに全ての自分の人格が畳み込まれると思った。
そして、結局、何も問えなかった。
「結局、おまえはそれを選んだか?」と言われた気がした。

今は、何でもよいから問えばよかったと思う。
それも、どうしようもない、業の塊でしかない私そのものを問えばよかったと思う。

人は残して死んでいく・・と言う。
私は嘘だと思った。

人は、多くのものを持ったまま死んでいく。
もちろん、、多くのものを残してもらったから、その一部で自分もある・・とは思う。
しかし、あまりにも多くのもの持って逝ってしまった。
その持っていったものを引っ張りだすほどには、こちらの成長が追いつかなかった。
なんと悔しいことだろう。なんと悔しいことだろう。

談志が死んだ後、その弟子たちの成長度には差が現れはじめた。
半年も経てば、それは歴然となった。

私は最後に問えなかったが、とても大きな問いを残された気分でいっぱいだ。

人の死とは何なんだろう・・・・・・・・・・。

【TAROの日記】

2013/04/30(火) 08:35

あらためて田舎

どうも、都会人の田舎に対する憧れが鼻につく。
どうしてかは、そこらじゅうで語らえれていると思うけど、まー、本当の苦労を知らない・・ということに尽きる。

もちろん、観光で来ている人に、とやかく言っても仕方がない。
どうぞ、楽しんでいってね!ということでいいのだ。
しかし、その観光客の一挙手一投足の知らなさすぎ加減が、地元の者には、あー、あーという気分を呼び起こす。

昨日も、新潟県の某僻地で、地元のおじさん、おばさんとそんな話で盛り上がった。
彼らは、都会の人が遊びに来るから生活が成り立っている。
本当は、裏方として、それを享受すべきなのだが、私を含めた田舎人の曲がった根性は、批判的に考えてしまうのである。

田舎の美しさは、地元の人たちのたくさんの手間ではじめて成り立つ。
都会も同様で、都会の整然さも誰かの手間で成り立つ。
ただ、都会は分業ができているけど、田舎では、ぜーーんぶ自分でやらねばならない。

そこんところが、こういう気分の原因だ。

これから、田舎は、雑草との戦いがはじまる。
「あーー、きれいーー!」どころではない。
都会の人が「きれいーー」と山で取ってきたスギの葉も、我が家では、根性悪なゴミにしか見えない。

ただ、それでも、田舎の春は最高だ。
昨日行った某僻地では、感動的に太いゼンマイが所々にあった。
すでに、一度、メスを取った後のものなのか、オスだけが大きく太く伸びていた。
下から新たに出てきていたメスを取りたくて、ヨダレが出たけれど、大袋いっぱいに取るには、1時間くらいかかると思ってやめた。

本日、朝、そのゼンマイが夢に出てきた。
見つけたものは、取らねばならぬ。
きっと、今度の休みの一日は、あの場所に戻ってたっぷりゼンマイを取ることになりそうだ。
4日もあると伸びてしまうけど、まだまだたくさんあると見た・・。

ただ、ゼンマイを取った後の始末は大変だ。
綿を取って、干す。そして、手で揉みながら数日間干すことを続ける。
簡単には、口には入らない。

田舎者は、こうした行為の一連性の中のプロセスカットに異様な違和感を覚えるのだと思う。
プロセスカットという交換システムが人間の世の中を発展させたわけだけど、田舎のような副交換システムは、交換システム的なものと本来対立するものだ。

でも、田舎の副交換システムを全体システムで求めたら、そこには発見も多いし、とてつもないエネルギー変換があると思う。

そこで、私は一考した。

それは、別の所で・・・・・・・・・・。

【TAROの日記】

2013/04/26(金) 08:34

百姓

百姓という言葉が昔から好きだ。
どうして好きかは明らかで、自分のできることがあんまりないから。
自分の周辺のことが自分で何でもできる人には憧れる。

20代の前半に、山の奥の鉱泉の湯口を掘りにいったことがある。
剣スコを持って、昔湯口があったという場所へ行き、地面に剣スコを突き刺すのだけど、全然地面に剣スコが入っていかない。
ところが、一緒に行った10歳くらい上の人(@専業農家)が、ラクラクと掘っていく。
それを見て、とても憧れた思い出がある。

私は、元山屋なので、ロープを結ぶとか崖を降りるとか・・・・まーそういういろいろなことがひと通りできる奴だけど、本当のお百姓さんにはかなわない。
百の姓とはよく表現したものだと若い頃から尊敬のまなざして思っている。

最近、ネットを見ていると、そういう百の姓とは言わないまでも、特殊な特技を持つ人が副業で稼いでいるのを見て感心する。
一時流行った週末起業なんてのはバカバカしい勘違いだけど、小さく特技をお金にかえていくのは面白い。

私も本日、ギターアンプを修理に出すけれど、修理をしてもらうのは、メーカーに勤めながら楽器を愛している一般人。
ホームページもチープで、小遣い稼ぎ然とした体裁がかわいらしい。

こういう人に、私は憧れの百姓を見る。
ネットは基本的に嫌いだけど、なんだかこういうのはいい・・。

【TAROの日記】

2013/04/25(木) 08:30

偶発的

現在、いろいろと自分なりに描いてきたベクトルに、偶発的事象が起きている。

まー、一言で言うと、いろんなことが変更を余儀なくされているわけだが、心の何処かで、「偶発的とは、本当に偶発なのか?」という疑問がある。実は、すべてがビルトインされていて、余儀なくされている変更も、実は想定内なのではないか・・?と思えて仕方がない。
実は、いつも、潜在的な本当の思いを奥底に隠しながら、自らを騙し、生きている・・と思うのだ。

この考えは、別に新しい考えでも、突飛な考えでもない。
メニンジャーの研究はここら辺にあった。
その古き研究を私自身が実感したというだけである。

「偶発的創造戦略」とは、言葉にすると、かっこいいが、私が感じているこの気分を前向きな言葉にしただけのものだと思う。
確かに、偶発的事象から私は私を発見し、なにかの創造の模索をはじめている。
また、周辺情報の更新も進んでいる。

世の中では、偶発的を事件にしたがるが、事実の発見でしかない。
だから、創造的なのだ。

・・・・続きは、メルマか何かで書こうと思う。

【TAROの日記】

2013/04/24(水) 08:27

死ぬまでの分

知り合いに、死ぬまでの分の真空管を持っている人がいる。
それも、計算通りにいかなくて途中でなくなったらどうしよーと思っているらしく、その使い方もリーズナブルだ。

私にはわからないけれど、50年代~80年代、もっと贅沢を言えば50年代~60年代のヴィンテージの真空管の音を知っている人は、最早、現在の真空管は使えないらしい。
音のモデリングが普通になってしまった21世紀には信じられない話のようにも聞こえるが、本物を知っている人たちには、モデリングされた音など論外なのだ。

そういう凄い人にはかなわないけれど、私も自分のオーディオセットが死ぬまで持つか心配だったりする。
・・・というか持たない。おそらく、後10年で壊れていくと思われる。
そうすると、音は記憶の彼方。思い出の一つになっていく。
日常のいろんなことが、ドンドン過ぎていっても気にならないというのに、このことについては結構恐怖を感じる。
いま聽いている音がなくなったら、どうするんだぁ?と少し思う。

実際にそうなれば、適当に妥協するのはみえている。人は慣れる。
しかし、あーあ、昔の音は良かった・・・などとはあまり言いたくない。

音の話は極端だ。真空管やオーディオの部品を確保しているというのも特殊だ。でも、私たちには、「譲れないないなー」というのがなにかしらある。
これだけは、死ぬまでこのままで・・というものだ。

私には、すぐに思いつくものがある。
お茶である。
私は子供の頃から、ある店のお茶を飲んでいる。
そして、今もそれを飲んでこのブログを書いている。
なぜか離せないのだ。
店は途中で味を変えている可能性もあるわけだが、私はこのお茶でないとダメになっている。
もちろん、お茶のことなど忘れ、何年も生活をしていたこともあった。
しかし、一度、このお茶に復帰したら、これでないとダメ。
別に、熱烈に好き・・ということではないけれど、このお茶がなくなったら、かなり悲しいだろう。

でも、このお茶屋がずっと続く保証はない。
だから、本当は今だけのお楽しみなのだ。

無常というのを、無情と思っている日本人が多いと小林秀雄も亀井勝一郎も言った。
無常と無情は違うのよ!とも言った。

でも、無情だよなーと思う。

そうえいば、最近のチャリンコ大衆化の中で、チューブラーもなくなっていってしまったけれど、あの走りの味って忘れられないなー。
70年代のミシュランのチューブラーとか冷蔵庫に入れて保管できなかったのかなーなどと思う。
もちろん、今のWOのタイヤの方が性能はいいとは思うけれど、そんなんじゃない味ってのはやっぱり大事なのだ。

アイデンティテイーとは、そんな周辺のことどもの喪失の流れのことを言うのかもな~なんて朝から考えてしまった・・。

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