【TAROの日記】
2017/04/10(月) 09:04
かけすぎる会
通勤の車でFMを聞くというのは、久しくやっていなかった。ところが、車の修理時に、車屋さんが入れたらしい。最近、FMを聞きながら運転をしている。
山下達郎の番組が昔のままのテイストでやっているのに喜んだり、福山雅治の番組がつまらなくてチャンネルを変えたり、尾崎豊のことは全然知らないが、その息子が尾崎の歌を歌っているという話を聞いて、つまらん奴だなーって思ったり、でも、ザッパの息子だと許せたり、湯川トーベンの娘のしゃべり方がいいなーって思ったりしている(新譜も新境地だと思った)。
ところで、今朝は、スガシカオが、「かけすぎる会」(って名前だったかなー?)というのをやっているとかナントカカントカ・・って話題に反応してしまった。吉野家では、紅しょうがをどんぶりに大量に載せることにしている私は、吉野家の紅しょうが用のトングが小さいことに腹を立てている一人(と言っても一年に1回か2回しか行かないけど・・)。「かけすぎる」というのは、そういうような行いの事のようで、ラーメンにゴマを大量にかけるとか寿司屋でガリを大量に食べる・・などの行為が紹介されていた。
会合があるのかどうかわからないが、どういう活動するんだろー?
【TAROの日記】
2017/04/04(火) 08:54
つもり
ギタリストのJulian Lageのyoutubeの映像を見た。その映像で彼は言っている。「自分のCDの音を聞くのが嫌だ・・」
「えー、あんたみたいな凄腕のプロでもそうなのー」である。自分の音はダイナミックスがまだまだ。だから音が平坦。とても満足のいくものではない・・ということらしい。
ダイナミックスって鬼門だ。私のような下手がどんなに意識してやっても、録音した音はとても平坦だ。録音機が冗談をやっているのではないかと疑うくらいに、一生懸命にやったことの成果は、録音機のスピーカからは微塵もアウトプットされない。
でも、超絶プロも同様のことを言っている。次元は違うと言えども、同じってことではないか!
自分ではやっている”つもり”。でも、できていない・・というのは悲劇だ。そして、できていないことに気づいていなければもっと悲劇だ。自分の”つもり”って、どれくらい現実になっているんだろう?そんな疑問を持つと、大げさ抜きで手が震える。人生なんて、勘違いしていなきゃ生きていけないとは思うけど、それも程度。・・とは言っても、録音して確認する以外に手がない。ただ、楽器演奏やスポーツは別として録音、録画なんてできないから、本当に困った話である。
【TAROの日記】
2017/04/03(月) 08:48
話さない一日
土曜日。誰とも話をしなかった・・ってことに気づいた。
週末の二日間、家で一人ぼっちだったので、結構いろいろなことができた。仕事はもちろん、ギターも長時間弾いた。ライブのためのエフェクト選びや音選びにもたっぷり時間が使えた。英語の勉強もそれなりにした。
・・とやりたいことに集中していたら、人と会うことがまったくなかった。家を出たのは、ポケモンしに行ったときだけ・・。
一度はじめると長く続ける私の特性は、ポケモンGOでも発揮されている。実は、やめたいんだけど、次々小さな目標ができてしまって、やめられないでいる。今も2500CP程度のポケモンを3匹所有してる程度の弱小だけど、ジムには、常時、3~5のポケモンを置いていて、コインもそれなりに稼いでいる。弱者の戦略がどうにも好きで、癖になっちゃっているらしい・・。
おそらく、私は1週間くらい一人で遊んでいても大丈夫そうだ。しかし、2週間目に入ると、どうなるのか・・? それが現実に来るような頃には、仕事がなくなっているだろうし、ちょっと不安だ。
一応、土曜日は、生まれて初めて24時間以上話すことのない日になった。そういう日って、ありそうでなかったことにはびっくりしつつ、一人は便利でいいところもあるけど、やっぱり嫌だなーって月並みに思った。
【TAROの日記】
2017/03/31(金) 08:55
meet VS find
英語の表現には、素敵なものがたくさんある。それで好きになりかけている(今だに好きではない)。
昨日、ブログに書いた「音楽に出会う」という表現を英語でも”meet music”としたら、”find music”に直されてしまった。んーーー、findだとちょっと違うんだよなー。
“It’s a piece of cake”なんて表現があるのに(ちなみに、「おちゃのこさいさい」って意味です。どっか通じてますよね)、”meet music”がないのはどうなの?
私は、贔屓にしている楽器屋のおじさん@京都に、「岡本さんは、ギター運のある人ですね」と言われたことがある。これは最大の褒め言葉だと思う。この言葉の裏には、楽器に選ばれている・・という気分もあって、正に「出会い」なのだ。
音楽もそうだと思う。私は、子供の頃から流行歌に疎い。全然知らない。同じ日本に住んでいても、世間の誰もが知っていても、知らぬものは知らぬのだ。ただ、自分でも自分のフィルターのチューニングの異様さには気づきつつも、これは私のフィルターだけの問題ではないと思っている。あっちがこっちを嫌っているのだ・・。そうなのだ!
逆に、「どうして、こんな音楽知ってるんですか?」と聞かれることがよくある。しかし、この問いにちゃんと答えられたことはない。だって、あっちが勝手にやってくるのだから。
どう考えたって、”find”じゃないんだよ!
人も道具も芸術も、全部、出会いで、それはこっちが探すだけでは出会えなくて、あっちがわの差配がとてもデカイのだ。だから、音楽を聞くこととは、その音楽に愛されていることだと思う。そして、もっともっと素敵な音楽にたくさん愛されたいって思うのだよ。
追伸
findに「出会う」という意味が隠れている可能性はあって、そこんとこは英語好きではない一般日本人にはわからないし、調べる気もないってとこが問題の可能性もある。その場合はごめんね。
【TAROの日記】
2017/03/30(木) 08:54
世界探索
高校2年生の時に、K.Yairiのアコースティック・ギターを買った。当時の田舎の高校生が、どうしてK.Yairiに目をつけたのかは、自分でも謎。今では、有名ブランドだが、当時は田舎の高校生が知るようなブランドではなかった(雑誌の広告さえ、なかったと記憶する)。
自分でも、過去の心の動きはあまり記憶にない。でも、この事実から、当時、私はエレキの音から生の音に回帰をはじめたらしいことがわかる。ただ、ここからは紆余曲折で、本当に自分のやりたい音楽に出会うまでには8年ほどを要する。夜明け前どころか、真夜中の購入だった。
今日、息子が京都へ行く。そして、K.Yairiも一緒に旅立っていく。彼は、エレキではなく生を選んだ。彼がどれくらいギターを演るかはわからない。ある程度弾けるようになり、私同様に演りたい音楽に出会うのかどうか・・?
ただ、アコギを持って西に向かうのは乙だなーとは思う。京都には『プー横丁』がある。数々のライブハウスもある。そして、京都音楽がある。あそこは、数々の革新の地だ。
父は、今、真逆の音楽を楽しんでいる。高校~大学~社会人の時に、大きく左旋回したゆえに、捨てざるをえなかった素敵な音楽に回帰。とても急激な右旋回である。そして、一昨年のライブでは、平山みきの『プールサイドクラッシュ』までやってしまった・・・・・。
さて、彼はどんな音楽を見つけてくるやら。彼の世界探索ははじまったばかりだ。
【TAROの日記】
2017/03/29(水) 08:40
目
右手の子供が飛び出そうとしている・・・。そう思ってブレーキを踏んだ。通勤の途中で、こういう経験ははじめて。気をつけないといけないなーと思った。同時に、自分の目はまだまだいけるなーとも思った。
最近、目に自信がない。そもそも、パソコンを一日中見ていられないので仕事にならない。執筆の依頼は時々あるけれど、中途半端な答えでお茶を濁している。いつも目に膜が張っている感じがあって、光も眩しい。
半年に一回検診をしているけど、今のところ大丈夫・・と言われるだけ。でも、さすがに仕事に支障をきたしてきたので、来週、東京の目医者で検査予定。
順調に進んでいた新しいセミナーのコンテンツ(膨大)の作業も止まった。パソコンが見れないのだから仕方がない。そして、このブログを書くのも億劫だ。なるべく、キーボードだけ見て打っているけど、まさか画面をまったく見ないというわけにもいかない。朝、ブログを打つと、次に、この文章の英文を裏ページに上げているけど、それなんてもっと億劫。今日は英語レッスンのスカイプも目がショボショボして嫌だった。
老人に向っての準備はいろいろしてきたけど、目のことを忘れていた。目はかなり重要だよなー。今は、来週の検査までフラフラしているしかない。スピードは落ちるけど、淡々とやっているしかないよなー。ちょっとマイッている・・。
【TAROの日記】
2017/03/27(月) 08:56
噂
予測どおりではあるけれど、つまらぬ噂を聞いた。
今年1月31日に、当社は新潟の税理士部門を売った。この件についての考え方などは別のところで書いているのでここでは触れない。感情的な吐露は、このブログでも少し書いた。
でぇ、噂では、笹川という当社の元社長であり税理士が、私を裏切った・・らしいとかなんとかかんとか・・ってことになっていると先週知った。ツマラナイことである。
先々々週、笹川の新しい事務所にケーキを持って遊びに行った。確定申告のど真ん中でバタバタしていたが、みんな楽しそうにしていたので安心した。忙しいのが終わったら旅行に行くとか言っていた。そして、夏のバーベキューを我が家の庭でやるというので、ふるさと納税をたっぷりして旨い肉をたらふく持って来いと命じておいた。
人は、理由がないと落ち着かない。そして、能力の範囲内で陳腐な理由を探す。”裏切る”という表現は、陳腐な表現の中でも実に陳腐なものだ。人って、それほど裏切られるものなんだろうか?
もちろん、私だって裏切られたことはある。でも、たった1回。他にあったとしても小さすぎて覚えていない(いやいや、小さいものもないな・・・)。”裏切り”という表現がスっと出る人は、きっと、たくさん裏切られてきたのかもしれない。でも、おそらくそうではない。そう思い込んでいるだけ・・。人の世は、それほど、安易に裏切りなど起きない。多くは、個人の納得のためでものであり、妄想だ。
人は、どうも暇なようである。しかし、私は忙しい。他人の行動について解説する時間も、つまらぬ物語を創造する時間もない。
そして、暇な時間がないことをうれしく思った。時間があれば、私だって、つまらないことを考えるはずだ。
【TAROの日記】
2017/03/13(月) 09:11
理解とは、どうやってするものなのか?
イギリスかどこかのテレビ・シリーズらしき映像を見せられた。アムンゼンとスコットのお話という事前情報だけは与えられていた。
結論。まったくわからない。後で、聞いたら、ナンセンとアムンゼンが会話しているシーンとかあったらしいが、そんなことは逆立ちしたってわからん。だって、わかったことなんて1つもないんだから。
スコッチらしき若者が、ビリヤードやってる親父に呼ばれたこと以外何もわからなかった。それもビリヤード親父はスコットを怒っていたらしいがそれもまったくわからない。南極行きの命令でもされたのかな?って思っていたくらい。
わかった単語。wait death pole。人の名前2つ、 scotteとamnsen(スペルこれでいいか?)。余程である・・。
これは私がバカなのか、これを課題にした方が悪いのか、そもそも”理解”ということの本質の問題にぶち当たっているのか、それとも上達の過程の必然なのか・・?
1つわかったこと。映像の情報量は膨大だ・・と一般的に言われる。しかし、確かに膨大だろうけど、だから映像さえあればわかるというものでもない。切り口になる言葉がなければ映像なんてまったく見ても理解不能なのだ。人がいることはわかる。どこかの宮廷だということもわかる。でも、それでは何の意味も立ち上がらない。情報量が膨大であろう、意味はゼロ。犬の気分が少しわかる。
音を言葉としてキャッチできないのは、犬やカラスとかわらんのだなーとつくづく思う。
【TAROの日記】
2017/03/10(金) 08:46
”ちょっと”
どういうわけか目覚まし時計が1時間早く鳴った。それに気づかず、いつものように起きて、いつものように仕事をしたり、英語の勉強をしたりして早朝を過ごす・・。
途中で、「何か変だなー」とは思うものの、朝が追いかけてくるのを肌で感じながら、せっせと働く。
でも、どういうわけか朝は追いかけてこない雰囲気。「おかしいなー」とテレビをつけたら、まだ5時前。そこで「やったー、儲けた!」と思った自分を笑いながら、ゆっくりお茶を飲むことにする。
そういうわけで、今日は身体中を”得した気分”が満ちている。ちょっと万能感さえある。
人生の喜怒哀楽なんて、こんなことなんだろうなー。”ちょっと”がどっち側に振れるかで心の状況は大きく変わってしまう。
でも、心の中の”ちょっと”も累積するので結構怖い。悪い”ちょっと”は一回一回確実に解消しないとエライ目にあう。それも、悪い方は1回で1貯まるとすると、良い方は、0.3くらいだから、結構、意図して対応していないといけない。
とりあえず、今日はとても仕事が進むだろう。爆進レベルの感じがしている。こういうものは利用し尽くさないとね。
【TAROの日記】
2017/03/07(火) 08:53
A Hard Snow Gonna Fall
今日は、激しい雪。もう春かな・・って感じていると裏切りの雪が降る・・というのは毎年の恒例。でも、本当に嫌になる。雪国住人の怨嗟であります。
そんなわけで、激しい雪の中を通勤。頭の中では、なぜかディランの『A hard rain gonna fall』が鳴る。
Oh, where have you been, my blue-eyed son?
Oh, where have you been, my darling young one?
私の息子は、なんとか大学入試も終わり、家でボケーとしていて、目は青くない。一体、どこに行くのかね?将来何になるのかね?
Oh, where are you going, my black-eyed son?
Oh, where are you going, my stupid young one? ・・・って感じかな?
でぇ、彼のこれからにも
I’ve stumbled on the side of twelve misty mountains,
I’ve walked and I’ve crawled on six crooked highways,
I’ve stepped in the middle of seven sad forests,
I’ve been out in front of a dozen dead oceans,
I’ve been ten thousand miles in the mouth of a graveyard,
ってことを含めたいろんなことが待っているんでしょう(上記5行は原曲のまま)。
今日の雪は、そんな感じの雪に思えた。そして、
And it’s a hard, and it’s a hard, it’s a hard, and it’s a hard,
And it’s a hard snow’s a-gonna fall. であります。
ディラン22歳の時の作品を、55歳親父はそのまんま現実的に解釈して通勤したというわけね。
ディラン自身は、この曲で原爆のことを歌っていると言われているけど、まー、人生そのものが原爆みたいなもんだよな。
そもそも、ディラン自身は、「激しい雨」を放射能だとする説を否定していたはず。しかし、22歳が書くこの詩が、人生そのものについて書いている・・とするのもどんなものか? 彼は後に、「あの頃の俺は、爺だった・・」みたいなことを歌っているから、そうなのかもしれないけど・・。
でぇ、ハイレハイフレハイレホーだな。
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