日: 2012年5月9日
【TAROの日記】

2012/05/09(水) 08:38

生態系

私が、私だけだったら、私は私ではない・・などということを朝から考えてしまった。

あいにく、世の中は、私だけではない。
だから、考えてしまったことは空論だ。

しかし、そんな空論をしてみると、私というものが”自我”だというのは勘違いで、一つの生態系なのだということに気づく。

私は、私という生態系なので、妻とか子供とか部下とか友人とか・・・・いろいろなものが含まれて私なのだ。
そして、その生態系は、開放系だから、いずでも要素の入れ替えが可能で、生態系の中心である私でさえ入れ替わっている。

ところが、その中心である私は閉鎖系だ。
だから、入れ替わりを拒否する。
一部では、この入れ替わり拒否の私を”自我”と呼んでいたりもする。

「世の中は、私の鏡」という考えは世間でよく聞くお話だ。
通常、それを説明しようとすれば、投影あたりが持ち出されることになる。そして、それは、ど真ん中に正しい。
さらに、ツキトゥドゥスあたりを引用すれば、それで十分納得が可能だ。
そこに、私という生態系という考えを持ち込んでみると、もっと納得度が増すと思う。

私の大好きな状況や大嫌いな状況、大嫌いな人物も私の生態系だ。
そして、生態系の要素の入れ替えは可能だ。
生態系は開放系だから、”自我”という勘違いがない限り、可能性も柔軟だ(無限ではない)。

調子が悪いという感覚は、この開放系の閉鎖を意味する。
“自我”と言われるものは、病なのだ。

あくまでも、私は私だ。
こんなことを書いている私は、「忘我」とか「無私」という言葉が嫌いである。
坊主が坊主らしいことを言うのは、正しいと思うが、一般人が坊主みたいなことを言っているのが嫌いである(こうした感情を、自分を棚に上げる・・という)。
あくまでも、大きな”自我”っていうことで、開放系の自我を考えている。

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