2012/10/10(水) 08:29
昨日、Google+で、アドリブ話で盛り上がった(勝手にか・・)。
しかし、あらためて感じたことだけど、ひとつの言葉に包含されているコンテキストの差が歴然とする会話だった。
たとえば、ギター弾きの間では、ペンタトニックという言葉は知らない人はほぼいない。
そして、私がある曲のイントロをペンタだ!と指摘すると、なるほど!と言われたりして会話が成り立つ。
しかし、昨日、この使っているペンタという言葉に包含されるコンテキストには大いに差があるのだなーーーーぁと知ってしまった。
会話としては成り立っているけれど、実は全然会話になっていなかったのである・・。
実は、仕事では、こういうのが嫌で、私は言葉が通じる人を周辺に増やすという作業をここ10年意図的にやってきた。
気づいたら、言葉が通じない人たちを遠ざけている結果になっていたり、周辺同士の温度差も大きくなってしまった。
そこは問題ではあるけれど、確実に、レベルの高いことはやれるようになってきたという気分はある。
言葉、そして、意識を同次元にしておくことはとても重要なのだ。
もちろん、それによって世界は狭くなる傾向もあって、私はカタワ度を強くしていったとは思っている。
でも、言葉に包含されるコンテキストの濃度は重要だ。
その濃度が仕事も趣味の質も決めると思う。
では、濃度はどうやって濃くするのか?
その答えは、こんなところで書く気はない。
しかし、それはそれとして、その濃度に意識的な人とあまり気に留めない人がいるのには驚いている。
では、その差は何から生じるのだろうか?
実は、そこに「戦略眼」というものが関係しているように思えてならない。
どういうことかというと、言葉の向こうを見ようとするか、しないか・・みたいな感じ。
んーーー、言語化が難しい。
言葉をテーマにしているのに何を言っているんだろうね・・。