日: 2013年4月24日
【TAROの日記】

2013/04/24(水) 08:27

死ぬまでの分

知り合いに、死ぬまでの分の真空管を持っている人がいる。
それも、計算通りにいかなくて途中でなくなったらどうしよーと思っているらしく、その使い方もリーズナブルだ。

私にはわからないけれど、50年代~80年代、もっと贅沢を言えば50年代~60年代のヴィンテージの真空管の音を知っている人は、最早、現在の真空管は使えないらしい。
音のモデリングが普通になってしまった21世紀には信じられない話のようにも聞こえるが、本物を知っている人たちには、モデリングされた音など論外なのだ。

そういう凄い人にはかなわないけれど、私も自分のオーディオセットが死ぬまで持つか心配だったりする。
・・・というか持たない。おそらく、後10年で壊れていくと思われる。
そうすると、音は記憶の彼方。思い出の一つになっていく。
日常のいろんなことが、ドンドン過ぎていっても気にならないというのに、このことについては結構恐怖を感じる。
いま聽いている音がなくなったら、どうするんだぁ?と少し思う。

実際にそうなれば、適当に妥協するのはみえている。人は慣れる。
しかし、あーあ、昔の音は良かった・・・などとはあまり言いたくない。

音の話は極端だ。真空管やオーディオの部品を確保しているというのも特殊だ。でも、私たちには、「譲れないないなー」というのがなにかしらある。
これだけは、死ぬまでこのままで・・というものだ。

私には、すぐに思いつくものがある。
お茶である。
私は子供の頃から、ある店のお茶を飲んでいる。
そして、今もそれを飲んでこのブログを書いている。
なぜか離せないのだ。
店は途中で味を変えている可能性もあるわけだが、私はこのお茶でないとダメになっている。
もちろん、お茶のことなど忘れ、何年も生活をしていたこともあった。
しかし、一度、このお茶に復帰したら、これでないとダメ。
別に、熱烈に好き・・ということではないけれど、このお茶がなくなったら、かなり悲しいだろう。

でも、このお茶屋がずっと続く保証はない。
だから、本当は今だけのお楽しみなのだ。

無常というのを、無情と思っている日本人が多いと小林秀雄も亀井勝一郎も言った。
無常と無情は違うのよ!とも言った。

でも、無情だよなーと思う。

そうえいば、最近のチャリンコ大衆化の中で、チューブラーもなくなっていってしまったけれど、あの走りの味って忘れられないなー。
70年代のミシュランのチューブラーとか冷蔵庫に入れて保管できなかったのかなーなどと思う。
もちろん、今のWOのタイヤの方が性能はいいとは思うけれど、そんなんじゃない味ってのはやっぱり大事なのだ。

アイデンティテイーとは、そんな周辺のことどもの喪失の流れのことを言うのかもな~なんて朝から考えてしまった・・。

2013年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  
ページトップヘ