【無理に哲学】
捨てたモノ2009/10/09(金) 05:13
どの国でも、
その国の国民が年間に行う労働こそが、
生活の必需品として、
生活を豊かにする利便品として、
国民が年間に消費するものの全てを
生み出す源泉である。
(『国富論』序文より)
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一昨日と昨日の
マチュピチュとコンピューターのことを
思い起こすと、
このアダムスミスの宣言には、
懐疑的になってしまいます。
アダムスミスというか西洋の学者が
入り口で捨てたモノがある。
その捨てたモノは、
マチュピチュを作った人たちや
泥遊びをした人たちには、
最も重要なものだった。
そして、
それは、21世紀の私たちにも
重要になる。
予告ですが、
ニュースレターの来年1月号は、
そんなことを2010年という年と絡めて
書くつもりです。
不必要だと冷徹に捨て去ったものがありました。あるいは、無理やり棄てさせられたものがありました。もしそこに「痛み」というものが伴っていたならば、その匂いをたどって、捨てたものの近くまで行けるかもしれない、そう思っていると、下記の詩(うた)が脳裏を横切りました。
かつて輝かしかりしもの
今や我が眼より永えに消え失せたりとも
はた、草には光輝、花には栄光ある
時代を取り返すこと能ずとてもなにかせん
われらは悲しまず、寧ろ
後に残れるものに力を見い出さん。
いままであり、将来もあるべき
本能的同情のうちに人間の苦しみより迸り出ずる
人の心の和らぐ思いのうちに
死を通じて永遠を見る信仰のうちに
賢明なる心をもたらす年月のうちにそれを見い出さん。
―W・ワーズワース「幼年時代を追想して不死をしる頃」の抜粋/田部重治訳