日: 2017年3月13日
【TAROの日記】

2017/03/13(月) 09:11

理解とは、どうやってするものなのか?

イギリスかどこかのテレビ・シリーズらしき映像を見せられた。アムンゼンとスコットのお話という事前情報だけは与えられていた。

結論。まったくわからない。後で、聞いたら、ナンセンとアムンゼンが会話しているシーンとかあったらしいが、そんなことは逆立ちしたってわからん。だって、わかったことなんて1つもないんだから。

スコッチらしき若者が、ビリヤードやってる親父に呼ばれたこと以外何もわからなかった。それもビリヤード親父はスコットを怒っていたらしいがそれもまったくわからない。南極行きの命令でもされたのかな?って思っていたくらい。

わかった単語。wait death pole。人の名前2つ、 scotteとamnsen(スペルこれでいいか?)。余程である・・。

これは私がバカなのか、これを課題にした方が悪いのか、そもそも”理解”ということの本質の問題にぶち当たっているのか、それとも上達の過程の必然なのか・・?

1つわかったこと。映像の情報量は膨大だ・・と一般的に言われる。しかし、確かに膨大だろうけど、だから映像さえあればわかるというものでもない。切り口になる言葉がなければ映像なんてまったく見ても理解不能なのだ。人がいることはわかる。どこかの宮廷だということもわかる。でも、それでは何の意味も立ち上がらない。情報量が膨大であろう、意味はゼロ。犬の気分が少しわかる。

音を言葉としてキャッチできないのは、犬やカラスとかわらんのだなーとつくづく思う。

 

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