日: 2011年4月11日
【TAROの日記】

2011/04/11(月) 09:46

地元の花見

久しぶりに、家族+犬が全員揃ったので、
花見に行く。

新潟の春はまだ寒く、花が咲いていないためか
人は少ないけれど、お店はいつもどおりに出店していた。

いつもは、大量の人のため、
インチキな駐車などをしつつ、
花見会場に行くのだけれど、

昨日は、すいていたので、
正規の駐車場に、良い子の態度で車を入れ、
結構な距離を花見会場まで歩く。

花見会場の途中には、
小学校、中学校時代の友人の家が点在した。
それが懐かしかった。

今、彼らが実家にいるのかどうかわからない。
それはどうでもいい。
彼らの実家は、私にとっても思い出の場所なのだ(と気づいた)。

花見会場をまっすぐめざす家族を余所に、
蛇行しながら、旧友人宅をウロウロする。

城跡の公園を中心とした景色は、
私の子供時代の思い出の景色なのだった(と今頃気づいた)。

もちろん、景色はずいぶん変わった。
大きな建物やお店がなくなったりもしている。
それでも、それらの景色が思い出を呼び起こす。

思い出は大事だ。
私たちの心と身体をつなぐ架け橋だ。
やり方次第では、セルフセラピーにもなると思う。

津波は、それらを破壊した。
被災地の景色は、大きく変わる。
そこには、断絶だけが残る。

そもそも、自然とはそういうものだ。
人の思い出を根こそぎ変える。
そして、その変えられたモノのうえに、
人も新しいものを作る。
たかが70年から80年の私たちの思い出なんて、
ないに等しいのだ。

しかし、なくはない。
それはある。
それは人のエンジンの一つだ。

それが破壊された気持ちというのは
どういうものなんだろう?

・・・・・思い出を感じながら、そんなことを考えた。

喪失の体験は、
未体験の者には、わからない。

それでも前に進む・・という感覚もわからない。
「がんばろー」なんて、とても気楽には言えない。

しかし、それでも、
前に進むしかない。

でも、未体験者の私たちが言うことではないと思う。

ちょっとセンチな気分で、
『ろっかまいばいべいびー』を口ずさみながら、
そんなことを思った。

この思い出だって、おそらく永遠ではない・・。

2011年4月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  
ページトップヘ