【TAROの日記】

2012/03/29(木) 09:04

観察者(=傍観者)の限界

傍目八目とはよく言ったもので、自分のことはわからないが、他人のことはよくわかる。

では、第三者の視点は全て正しいのだろうか?

観察者の洞察は、それぞれの立場、それぞれの能力から見えるという点で、当事者よりも優れている時がある。
しかし、一人の観察者が、すべての観点から正しい解を出せるわけではない。あくまでも、ある点で当事者よりもすぐれた洞察が得られる場合があるというだけである。

新聞を見ていたら、『コンサルタントになっていきなり年収650万円を稼ぐ法』などという毎度毎度の本が出版されていることを知ったが、650万円程度を自慢する神経は、とりあえず不問にしておくとして、”いきなりコンサルタント”というのは、根本的に何かを勘違いしているなーとあらためて思う。

まー、こんなことはどうでもよいのだが、今日は本当に何も書くことが思いつかなかったので、こんなことを題材にしている。
ただ、せっかくなので、もう少し書く。

当事者には感情がある。
観察者には感情がない(他人の気持ちなんてわかるわけない。私は「わかる。わかる・・」という言い回しが嫌いだ)。

物事の判断とは、いつでも感情が伴う。
しかし、観察者は、その感情のただ中にいない。
それが有利に働くこともあるが、おそらく多くの場合は、それは問題がある。

世の中で、傍目八目が通用するのは、単に浅いところで、みんなが満足しているだけだからだ。

傍目八目・・とは単にそういう意味でしかないと思う。

世の中には、「傍目八目ビジネス」が多くある。
それは占い師から評論家、床屋のおばちゃんまで人に意見する多くの商売がそうだ。
場合によっては、課長とか部長なんてものも含まれるだろう。
しかしね、そんなものはそんな程度なのだ。
「でも、それで救われました」というような経験は、競馬の予想詐欺でたまたま当たってしまったことと何も変わりはない。当たらない方が良いことというのは結構多いのだよ(笑)

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