2004/03/16(火) 06:14
(今回は少々抽象的ですがお許しを・・)
1月の私の合宿セミナーに参加して大決断をした人がいる。
彼は、それが「見たくない現実」だとは思わなかった。
自分では、いつも見ている現実だと思っていた。
でも、そうではないことを知ってしまった。
実は「見たくない現実」は足下にある。
それも自分ではわかっているつもりでいる。
しかし、そこに「未来」という解釈が入るときすべての意味がかわる。
そして、「逃げていた自分」に気づく。
この瞬間は大きなパラダイムの転換だ。
人は一度見ないふりをしていたものを真っ正面から見てしまうと、
「勇気のある自分」と「逃げる自分」の選択しか残らなくなる。
彼は偉かった。
「勇気」を選んだ。
実は、「見たくない現実」を見ただけでも偉い。
同じ作業をしても、最後まで「記号化」した現実を見ることだけに始終する人は多い。
そして、「記号化」の呪縛から逃れることができても、「勇気」を選ぶ人は少ない。
「勇気」とは「捨てること」である。
ありゃりゃ、月並みな話になってきてしまった。
でも、「捨てること」という言葉を「記号」にしてはいけない。
これは誰もが「経験」しなくてはならないのだ。
私は「勇気」がないので、日常でなるべく捨てるようにしている。
決して、総取りはしない。
合図があれば、すべてのこだわりを解いて捨てることにしている。
こうしておくと、あまり「勇気」がいらないですむ。
そして、「流れ」というものを感じることができる。
「流れ」というのは不思議だ。
言葉では言えない。
しかし、日常の「捨てる瞬間」に、その粒子が見えるときがある。
その現象をうまく言うことはできない。しかし、あえて言うなら、それを見ている自分に「ムリをしない自分」を感じる瞬間でもある。
そして、「道理」という文字がボヤーと見えたりする。
人は、なぜ「する」ことからしかモノを考えられないのだろうか?
「する」ことには「ムリ」がある。
では、その「する」ことを「道理」にするにはどうすればよいのか?
それができないから「捨てる」ことをしなくてはいけない。
人によっては、貯めて大きく捨てなくてはならないし、ある程度の視点を持っているものは、日常の中で「負ける技術」を使わざるを得ない。
坊さんではないから、「する」を「道理」にするのは限界がある。
だから、「負ける技術」は重要だ。
「勇気」のあった彼は、一歩手前で負けないですんだ。
彼は、一歩手前で「負ける技術」を利用した。
同じ時、私から「負けなさい」と最後通牒を受けた人がいた。
彼は言った。
「やっと、すべてが思い通りにできるときがきたんだ。やっとゼロからスタートできるときがきたんだよ」
私は言った。
「○○さん、その言葉をボクは何回聞かされたと思いますか?」
彼はまだ負けを認めていない。
だから、彼が言うように「ゼロ」にはなっていない。
「勇気」のあった彼には決断した直後、大きな仕事がやってきた。
彼は電話で言った。
「不思議ですよね~。こんなもんですか?」
私は言った。
「不思議だけど、こんなものなんだよ。経験者にしかわからないことだけどね・・」
「勇気」のあった彼は、さっぱりした気分で前へ進み出した。
「ゼロ」になったと口では言っている彼はどこへ行くのか?
本当の「負け」が待っているとしか思えない・・。
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