2004/03/23(火) 03:05
(今回も抽象的です。メルマの解約増えそうですが、仕方ない・・)
家族で山梨へ遊びに行く。
高速道路の正面に富士山が見え、私たち夫婦は大はしゃぎ。
しかし、子供たちは「見えない。見えない」と言う。
どうしてかなと思うと、富士山を手で隠して探している。
それも3人とも。
遠くのものを見る時に、目の上に手をかざすのが3人ともクセになっているらしく、
その手に富士山が隠れてしまっているのだ。
「それじゃ見えないよ」
子供たちにそう教え、手をブラブラさせて見ろと言う。
「見えたー」と大騒ぎ。
果たして、富士山が何者かもわからない子供たちは、大人が喜んだという「記号」で喜んでいる。
先に、喜んでしまったのは失敗だった。
まったく「記号化」のないままに出会いをさせてやりたかった。
これは、親が気をつけなくてはならないことなんだよなー。
さて、本論。
人は、解を求めるとき、「ここ」だけを隠している場合が多い。
「ここ」だけを見ずに答えを求める。
これが一般的な現代人だ。
なぜなら、情報というものの性質がそうだから。
ある情報があるとする。
それはある大きな情報の断片でしかない。
しかし、これをとらえる人たちは、それを全てととらえる。
そういうクセがついている。
これに慣れると思考省略が始まる。
そして、思考省略傾向が出てきた人たちに、次に用意されるのはプロセスカットされた情報である。
今、人々は、この「断片の情報」と「プロセスカットされた情報」を情報と呼ぶ。
「断片の情報」は、富士山を見ようと手で富士山を隠しているのに似ている。
一番大事なところがそこから見えることは少ない。
したがって、富士山を見つけることはできない。
「プロセスカットされた情報」は私たちが先に富士山を見て喜んでしまったことに似ている。
それは、情報の送り手の価値であって受け手の価値ではない。
この弊害は2つある。
一つは、その情報が送り手の価値観でしかないのに、そのまま受け止めてしまうこと。
もう一つは、その情報そのものや送り手の価値感を批判してしまうこと。
実は、この2つは、まったく逆のようでベクトルは一緒だ。
私たちは、「見えている」という大きな勘違いを起こしている。
経営で最も危ないのはこれだ。
当たり前のことを今回も言ってしまった・・。しかし、「ただ見る」ということができないと、うまい経営はできない。
そこに判断を加えた段階で全てはおしまい・・。
しかし、この「ただ見る」が難しい。
なにせ、相手は「断片の情報」と「プロセスカットされた情報」なのだから・・
でも、実はカンタンなこと。
「情報とはそういうものだ」という態度で渡り合えば80%は解決する。
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